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舞ひあそぶ

神楽のこととか、日常のこととか。

春なのにー

しもやーけですーかー。

ブヨといいなにかと足のトラブルに悩まされる。
水虫はまだないです。一生なくていいです。

ちなみに、出会わなければお別れもないよねという持論。学生の時ほど一喜一憂がなくなり、オトナの単調さはなんとなく楽です。
でも沸点が低くなってまたこの時期が来たかの憂鬱はオトナのほうがひどくて嫌です。


明日は仕事で、明後日は、にくまつりー!わっしょーい。にくー!

もっと全力で島根を楽しみ隊。



なんか眠くて、謎かけのような話になりました。


家で、いただいた神楽カレンダーと、前年までのやつで切って取っておいてある写真を、歯磨きながら眺めていて、やっぱり本質はこのキャラクターそのものへの愛情なんだよなあと思ったのです。

結局のところ、面を外して化粧を施すことでは、「個人」あるいは「我」を消し得ないというか。
なぜ面をかけるのかといえば「我」をあるものに"依り"添わすためだから…


たぶん、たぶんなんですけど、最近ことに言われるある人にたいする「おっかけ」が増えてきたのは、化粧舞の文化にも関係があると思うし、すごい語弊はあるんだけれども、「我」のある証拠なのだとも思う。
キャラクターの向こうにいる「個人」を見てキャーとしているというか…

まあ私も師匠キャーとか同じようなもんなんですけど。

何を舞っても、何を奏しても、魅せる人はおられます
あるいは、この舞はこの人!みたいな名手もおられます。

でもその場合って、「この人の○○はええなあ」なのですよね。
「この人の胴はええなあ」「この人の神はええなあ」「この人の鬼はええなあ」
その人を通して聞かせる音や、たち現れるものたちにたいしての"ええなあ"。


「○○のあの人がカッコいい」だと、それの向こうにいる「あの人」を見てしまっている。


なーんていったらいいんだろーなー。


ちょっとまた整理してから書き直そうかな。


化粧だと顔面の良さとか、声の良さとかそっちに意識もいっちゃうよね。
面をかけて、顔がわからない、声も面越し、それでも美しい所作で魅せるか、どれだけそのキャラクターそのものに生き生きとした肉体を与えるかが、能とか仮面劇の真髄だとも思う。

うーん。よくわからなくなった。

しもやけかいかい

しもやけおじさんの攻撃で困っています。
まったく、物事に集中できませんのでちょびっと。

前に「黒塚」は、(石見弁が)何言ってるかわからんし、なんかネタ的によくわかんない。ってぶつぶつしたとき、でも「黒塚」はそれでも石見神楽の大切な演目なんよーって、教わったことがあるのです。

もともとは、夜明かし舞でしか舞わないし、なにより神仏分離令や、仏教要素排除の動きがあった時代に、それでも無くせなかった演目。

いわゆる、現六調子地域には無いやんってツッコミが入るかもだけど、そもそもあのあたりは夜明かし舞がまれであったのではないでしょうか。記録で見ると、能舞を奉ずる祭りが少ない。式年祭は神がかり神事がウェイトをしめるし。
例祭でも夜明かししちゃおーぜー!舞っちゃろーぜー!はお祭りが好きな?沿岸部の文化ともいえましょう。
もしかしたらだけど、執り行うお財布事情とかもあるのかもね。


鉄板ネタももちろんあるらしい。
ちょろっと聞いただけだけども。

いつか、ゴリゴリの、ほぼオンリー鉄板ネタの「黒塚」を見てみたいものであります。

鉄板ネタというのは、方言は早口だしちょっと難しいけど…でも、世代や環境とかを超えて笑えるからこその鉄板なんじゃないでしょうか。

だからこそ、難しくもある。

そのキャラクターたちがもつ雰囲気や、間合い、話し方、立ち居住まい。
名手はおられるはず。


その空間に身を投じてはじめて「黒塚」の本当の面白さが感じられる気がして。
ぜひいつか感じてみたいものであります。


マジでしもやけかいかいなのでおしまい。

春は来ていた。

啓蟄のときも近づきまして、私ものそのそ放浪の虫が蠢き始める季節になりました。
今日は美保神社と、七類抜けて気がついたらかめおの神能さんちの近くへ。潜戸クルージング一回乗ってみたい。

車を走らせていて、陽射しもそうなんだけれど、なにより山の色が変わってきたので、ああ春が来ていたんだなあ、って。
黒々した色から、赤みを帯びてきた。
まだ梅も悩みながら、つぼみは固いだろうけれど、確実に頬を染めてその時を待っていますね。
早咲きの桜かなにか、梅じゃないのが少し咲いているのも見かけました。
雨も少しずつトゲトゲが取れてまろみがでてきた。
うひゃー!はるー!太陽早うはよう!

昔、この時期になると父にせがんで、静岡の河津へ、河津桜と菜の花を見に連れていってもらったことを思い出します。姉たちが帰ってきたこともあるし、だんだん、人が多いのがしんどくて行かなくなっちゃったけど。またいつか行きたいなあ。
桜のワインとミカンのワインがジュースみたいに美味しくてですね、普段は日本酒と焼酎でも、それはごくごく飲めちゃうのですよ。

あと、梅林というのに行ってみたいんですよねー。

山根さんかな?曽我兄弟の演目あったのと、歌舞伎でも有名ドコロ、「外郎売」としてもしられている、曽我の梅林は比較的地元なのですけれども、行ったことがなくて。それもまた悔やまれるー。

そーねたぶん距離でいえば電車で30分なので、出雲かその手前らへんくらいの感じでしょうか。
…めっちゃ近いやん!

曽我の梅林の梅干しは酸っぱくておいしい。

島根の梅林といったらどこなのかなあ。
水仙とか菖蒲は益田でしたね、たしか。

あーやっぱりお出掛け一緒にしてくれる人探そ。

簡単なようで結構むずかしい。



桜は私の誕生日の花なこともあって、好きなのですけれど、島根に来てからは梅のほうが、春来るらしな思いがして、咲いているのを見ると嬉しくなります。
こっちのほうがやたらめったら寒いぶん、梅が咲いて春の訪れを告げてくれるのがありがたい。

あと、神楽歌でよく聞くようになって、美しいなあって思うからかな。


拾遺和歌集」「源平盛衰記」などでは
東風吹かば にほひをこせよ梅の花 主なしとて 春を忘るな

ですが、

「十訓抄」「太平記」「荏柄天神縁起」などでは
東風吹かば にほひをこせよ梅の花 主なしとて 春な忘れそ

となっているようで、神楽歌でも歌われる人によって違う気がします。「春を忘るな」がなんとなく多い気がする?

そういえば荏柄天神っていえば……鎌倉かあ。なんかビミョーに遠いところにあって、やぐらがある天神さんだった気が。昔はよく歩いたものです。もーいま無理。


話は戻りまして、個人的な好みでは「春な忘れそ」のほうが好きかな。
「な~そ」の用法って、「~してくれるな」って、祈りとか願いに似た禁止の意味合いが「忘るな」より強い感じがして。

梅よ、どうか春を忘れてくれるな、の思いのなかに、私にどうかお前の匂いを届けてくれ、春を運んできてくれ、という願いがあるような。
春を、だけど、私を、でもある。
私のために、咲いておくれよと。
東風が吹いたら主の私を思い出して咲いておくれよと。

そんな気がするのです。



前に、ちょっと言ったかもだけど
梅は私のところへ飛んできてくれた、桜は私をおもって枯れてしまった、松よお前は変わらずそこに立っていてつれないなあ、の歌
松は待つ
だから、彼は一人、主が戻ってくると信じて、帰ったとき主を屋敷で迎えたくて待っていたのに、つれなかるらんとは、主はつれなかるらんと思っていたし、やっぱりいまでもちょっとそう思う。

でも、菅公は、自分が帰れないと悟っていたからこその、つれなかるらん、だったんだろうとも、この頃思うようになったのでした。
帰れないから、どんなに待ってくれてもその健気さに応えられないから、松よお前はただ立ち止まってじいっと待つばっかりなんだなあ、といううらめしさ、さみしさ、切ない気持ちもあるのかなって。


追いかけるがいいか、悲しみ朽ち果てるがいいか、前にも進めず立ち止まるがいいか、どれがいいんだろう。どれもなんだか幸せではないよなあ。

やっぱり主はつれなかるらんだ。

じだらくふだらく

ふだらくってなんだっけ。なんか字が駱駝っぽいやつ。

ボンビーならドライブすればいいじゃない、と思い立って、はじめて一畑の薬師さんへいってみて、そのあと、この山越えたら海じゃん?と思ってヤバイ道を引き返せずに海にいきました。
ほら、家にいると光熱費かかるし、石見までいくとそれはそれでいろいろかかるし、間をとってね。
明日はどうしようかな。

薬師さんは、なんか…諸行無常盛者必衰の理をあらはすな感じ。き、きっと時期が悪いんだろうな。

まさかのハリボテ感と、えっと鎮守社?の自然に帰りっぷりが半端なくてちょっと悲しい気持ちになっちゃった。
とことこ歩いていたら、秋葉山大権現とあって、いこーかなーとか思って登り始めたら、速攻落ちた枝が石段を塞いでいたし、珍しく暗い雰囲気だったので、無理せず鳥居からのお辞儀程度にとどめて引き返したのでした。うひー
どうしたものかな。

よくわかんないんだけど、なんとなく暗くてうすら怖いお宮と、パァアってなんとなく明るいお宮があるなーと思います。
陽当たりもあるのかもだけど…
キング オブ パァアは断然大社さんでしょうなあ。
あそこはどんな天気でもだいたいほのぼのとした空気と、その粒子に紛れる光の割合が多い気がします。

浜田辺りのお宮は、怖いお宮はあんまりないけど、普段と神楽の日のテンションが明らかに違う。普段は眠っておられるんだと思う。

海は、石見の海のほうが私は好きです。
多伎以西。

もともと泳げないので、海は安全なところから遠目で眺めることを好むのでありますが、島根半島の上っかわって、崖!岩!海!って感じで、どちらかといえばイメージ通りの日本海!みたいな。
石見も岩場とかこわげな道も多いけど、優しい顔してる場所も多い気がします。
というか、なんか海にたどり着くまでが山越えサバイバルすぎて苦手じゃ。西のほうがアプローチしやすい。

実際走ってみて、案外、江の川沿いの「あ、ヤバイ」ゾーンと変わらないんだなあと。道が塞がってはいないけど、山は相当荒れてる。
江の川辺りの地域は、まあ鉄道が通っているし、大抵それでも住んでおられる気配があったり、空き家があったり、人が存在した気配があるんだけれど、今日走ったところは、鉄道はもちろんだけど、そもそも家がない。ある集落からある集落までの山道は、本当に通るためだけにあるみたいな感じで、夜だったら完全に泣ける系。

結局のとこ、東の人たちがいうほど、東西の差はなくって、街というか、中心地から荒廃地が、距離や意識的なところで、近いか遠いかなんじゃないかと思ったりしたのです。

実際は、すぐ横で荒廃は口を開けて笑っているんだ。

おぞいおぞい。



あ、そうだ、面の話ちょっとほそく
師匠から、怒りだけに凝り固まった面は、かえって明らかに笑う、って。
不思議だなあ。
笑いは怒りの表裏一体?
慟哭の面は、でも、泣いている。

怒りを表すことに固執しすぎると、悲しくて怒るんじゃなくて、怒りに酔いしれてしまうから笑いになるのかなあ。

もがもが

なんかやっすいポテチ買ってあったので食べたら、すっごいマズくて、ひもじいとかそんなん吹っ飛んだ。強烈や。どこでこんなん買ったんだろう。忘れてしまった。口と胃のなかが大変なことになっている。
圧着しました系ポテチは腹が膨れるので非常食のつもりだったけど、むしろ非常事態になりそうな恐ろしいヤツであります。
食べきれなかったから明日も食べないとなのが、ちと憂鬱。

あとなんかちょっとこのブログが使いにくくなりつつあってやれません。


いででで

昨日の続きをちょびっと。


師匠が教えてくれた、「変わったら舞が変わる」シリーズのなかに、面が変われば舞も変わる、というのがあるけど、結局これも昨日のやつに繋がるんだなあと思ったのでした。
舞手は面に、肉体を貸しているから、面がその人の肉体で舞っているから、面が変われば、面の性格も変わる。だから、舞が変わる。

良い舞手は面に肉体を貸しきれる人、面と対話をできる人だよと言われて、はああなるほどなあって。

たまに、能とか神楽とかで感じる、面が本当の顔みたいに泣いたり笑ったりしているのって、面そのものの造形、舞手の所作、型の習熟度だけではなくて、面とその舞手がうまくリンクしているときなんだなあと、思ったのです。

自分が自分がと、自己顕示欲というか…我が強いと、どんだけ端整にしていても、たぶん本当に良い舞は舞えないのではないかな。
面と自分が戦ってしまう。
面のキャラクターに寄り添えない。体を貸してあげられない。
逆になんか残念感があるときは、こういうときなんだろうなあ。


あとやっぱり、去年の夏くらいにいったかもだけど、具体的すぎる表情とか、作り込みすぎた面だと、またそれはそれで私としてはしっくりこない。
というのも、名手の生まれる面、名手を必要とする面、良い面は、抽象的な造形というか、なんともいいきれない曖昧な表情が多いですよね。

極端な話、兄まあさんも、あんなお顔ですけど、あれがどんな感情であるのかは、言い表しきれませんね。いわゆるひょっとこみたいなオドけているかといえば、どうもそうともいいきれない感じ。でも、確実にあの面にはあの面の性格がある。あの面の舞がある。だから、あの顔で受け継いできた。

曖昧な表情というのは、逆に、あらゆる表情ができるということ。感情を多様にあらわせるということ。
笑った顔は、まだなんとかしようがあるけど、目をひんむいた怒った顔は、どうしたって怒ってる。つまり、怒ってるとこしかあらわせない。

あ、だから面を変えるという文化が副産物として生まれたのかもしれないなあ。
わからんけど。

能面の般若面は、あんな顔だけど、泣きますからね。
橋姫もだけど、彼女たちはちゃんと泣ける。いや、もともとあれは哭いている。

面が泣きたいときに泣き、笑いたいときに笑うことのできる面が、いいなあ。そしてそれを生きたものとするのが、舞手。我が強いと、生かせない。



そうそう、権現様とか、神楽でも面がご神体となっているのも、そういう面のもつ力所以なんですねえ。
権現様は、人の体を借りてうきうきと舞いあそび、祝福してまわる。
あのなんともいえないプリチーな感じは、舞手の体を確かに借りて自分の守護する人たちのところへ出かけていたからなんだろうなあ。


現実と非現実、人間とそれ以外の境目に面がある。

おもて、についての説明をもう一回聞きたいな。


最も原始的な儀式では、化粧がはじまりのはず。
その次に、面。
文化人類オタクの先輩に聞いてみよっと。

妓楽とかあのあたりから面の文化は確実にあって、醸成されたのが能、狂言で、あえて化粧に戻って、自分の顔を生身の面にしたのが、歌舞伎、ということなのだろうか。

うううーん…思考がうまくまとまらないなあ。

なんで歌舞伎は化粧なんだろう。
登場人物がおおくて面が足りないとか?能への反骨精神とか?傾きたいから?

よくわかんない。


あれよね、化粧は稚児に施してたと思うのよね。
あー歌舞伎の歴史について教わった気がするんだけど…忘れてしまった。野郎歌舞伎の前に関係がありそう。

人はなぜそんなにばけたいのか。



なんか、いろいろ。もがもが。もがいてももがいても。

めそめそ太郎は面をかけられない

タイトルはとくに意味がない。

なんかよくわかんないけど、落ち込みぎみで、昨日はなんか家帰ってからずっとめそめそでした。今朝の顔は最悪だった。
今日もちょっとめそめそ。
何が悲しいんだかよくわからない。

でも仕事以外で声出してしゃべる話し相手がいなくなって久しいので、涙を出すのはちょっとスッキリする気がする。
強くならなきゃなあ



能面の本を読んでのメモなぞ。

能はかつて田楽能と猿楽能があって、いまは猿楽能をルーツにもつのだけれど、そのルーツは奈良時代に大陸から渡来した散楽なのだそう。平安時代に猿楽となったのか。田楽も同時代の成立なのだろうなあ。田楽は、田植え踊りとかそっちに残っているはず。
能、狂言は、音楽、舞踊、演劇の融合した、総合芸術だとあったけど、採り物神楽系統もこの部類にいれていいと思う。能楽が少なからず影響を与えているだろうし。

総合芸術は、プロパガンダとしての役割もあったのだろうと、私は思うのです。

いつの時代も宗教と芸術は隣り合わせだったから。文化とはそこから生まれてきたから。


能面は、神仏、天人、鬼神、仙人、亡霊、動植物の精など、あらゆるものを表現します。
興味深いのは、生身の、特に壮年の男性は直面で、老人と女は面をかけるということ。
男性、しかも稚児とかではなくて、ちょうどよく熟した歳の男性が担ってきたのだろうし、その男性そのものが「現実」を唯一あらわすものだったんじゃないかなあ。老人や女は、おなじ人間であるけど、彼らの感性的にどこか「現実」ではない存在みたいな。

狂言では、女は直面で表現する。
狂言のほうがより世俗的というか、大衆に近かったから、女もまた「現実」に生きる存在であったということかなあ。

能と狂言が、いつの頃からなのか不勉強なのでわからないのだけど、寄り添って生きてきたのは、夢と現実、陰と陽、ふたつでひとつの世界をあらわしてるからなのかなって。離してしまったら、どちらかが廃れて消えてしまったら、もう一方は世界の半分しか表現できなくて、きっとそれもまた消えてしまうのかなって。


読んでいた本でいいなあと思ったのが、面のことを「変身の道具であるとともに演出家に似た絶対的存在」といっていて、これが「面」のもつ力だし、彼らがそのものを神体として大切にする所以なのかなあと。
舞う人が、個という人間を超越するための道具であるし、面そのものがキャラクターであって、人はそのキャラクターに抗わず寄り添うことで、ある個という人間を超えた「なにか」になる。
人が演じるんじゃなくて、面が肉体をもって立ち現れる感じ。

きっと師匠なら言いたいことわかってくれる…は、ず?

むずかしいなあ。


石見神楽において、面は、神体としての役割を持たないけど、神職の時代からずうっと顔を変えずに受け継がれてきた面なんかは、おおよそ近い存在なんじゃないかな。
般若面、兄まあ面、切目面、とか。
そのものが性格を持っている。


能楽師狂言師は、「磨きあげた感性と知性で、融通無碍、自由な世界に遊び、愛情に基づく面の使用選択」をするとあったけど、おそらくは、神楽面も含め、古老から受け継がれる、その面のキャラクターを知りつくし、演目を知りつくしている人が許されるアソビなのでしょう。
面とともに舞い遊ぶ。


いやはやなんとも、知り得ない世界なのであります

もそもそ

ぶつくさ独り言というか。心に決めたことというか。


なんとなく不調病が結構しんどめで、気が滅入って滅入った極みのタイミングで当面の活動予定が送られてきて、なんかちょっと元気になった単純脳。

わっしょーい
今年もかめのふするぞー。
積極的神楽ビンボーに私はなるッッ

もう、いいでしょう。
スケさんカクさん、もういいでしょう。
神楽だから行けませんっていってもう呼ばれても帰らないぞ。全然ビッグになってないけど、神楽を優先させるぞ。

往復の交通費で何回浜田を往復できることやら。

目先のことばっかりっていわれるかもだけど、あとでじゃなくて、いまどう生きるか、いまどうやって生活をしていくかを考えないと、そこに余裕が生まれてこないと、これからどう生きるか、どうあるべきかなんて考えられるわけがない。

私は心身を疲弊させて困窮するために来たわけじゃないのに、なにをしているんでしょう。

って、思ってはいるんだけど状況は変わりませぬ。はああ。

まめだの鶏マヨ丼を頬張りたい。ううう…泣いちゃう
唐揚げ食べたい
こんな、数百円の欲望すら叶いませぬ。はうう


にゃんこさんのためには帰ってあげたいけど、いま、だいぶん疲弊なのです。


だから私は神楽ビンボーを選ぶぞー。
もう神楽があるときは神楽優先するんだから。

とかいって、仕事が入ったりするんだけど。
あーあ。いいんだけどさー。
神楽見る仕事したいなあ。


私は普通より不器用だから、スゴいオトナになりたいんじゃなくて、ただただ神楽について調べたいし、神楽を見つめていたいだけなのです。
表立つと人の評価が気になって落ち込むだけだから、師匠のうしろに隠れながら好きにウロウロしていたいのです。


あー鶏マヨ丼食べたい