舞ひあそぶ

神楽のこととか、備忘録の掃き溜め。

土地のはなし

言われてみればたしかにと思ったことなのですけれども、誰がなんといったって、どんなに古い古いいったって、長浜面とあの衣装持ってる時点で長浜あたりの影響受けてるからね!っていうこと。うーん、たしかに。

圧倒的な影響力をもつほどに隆盛を極めた土地。

なんというか、長浜のあたりは、いまも商港ありますが、貿易の港だったんでしょうか。温泉津とかに近いような感じ?北前船寄ったんですよね?
刀工、根付師、提灯の職人。神楽産業の礎があった。

そういえば天満宮とかあるあの一本の通りは、昔の街道みたいな感じ。
郡上のへんとかみたいな、人が行き交った名残がなんとなく見える。
いつも思うけど、いまの交通の道筋からすれば外れているというか、なんでこんなとこ?みたいなところが実は昔は栄えていたりして、逆にいまの道筋から外れているからこそ残ったり、「ファスト風土」になりきらずにいたりする。
やっぱり交通を調べるのも面白いよなー。


あ、刀工がおられたから、熱田神社があるのかな?
あの熱田の人がやってきたという記録もたしかあったはず。

神社事情も面白い。

蝋燭とかも作ってたりしたのかなあ。どうなのかなあ
いずれにせよ、明らかに、浜田のなかでも商業地帯であったことは間違いないですね。
世の中の最新の情報が入りやすい土地。
普通神楽を育むのは農業地帯。正しい言い方わからんけど。

ふーむ。


そうそう。そういえばこの前の田ばやし見ていて思ったのですが、やっぱり海側と山側ではビミョーにテンポが違いますね。
本来は、その土地に生きる人が、無理なく動けるリズムであったはずだと思う。
だから、そう考えると、神楽も、やまはやま、うみはうみで好むリズム感は違うとするのが自然な気がするのね。


あと、これは合っているかは別として、自分のなかで最大の発見でありましたが、
結局なぜ日本全国において、神職の神楽演舞が禁じられたことで農民への移行が可能になり得たかといえば、田ばやしとか田楽とか、風土にあったリズム感をすでに持っていたからなのではないでしょうか。
神楽も、担い手は神職、古くは修験者だけれども、土地の人たちが求めないものならとっくに消えていたはず。ということは、リズム感含めて芸態が土地に合ったものだった。
最初は、神職に習ってとか見よう見まねとか「もどき」だったとおもう。
逆に言えば「もどき」ができたわけで。
それは、いくらなんでも素地がなければできません。
一人二人、超センス良くても、神楽を執行するにはもっと人数が必要。
神楽を執行することができる人数が「もどき」できるということは、すでにそのリズム感や動きといった身体ができていないと、なんぼなんでも難しかろうとおもいます。


あれ、なんかなに言いたかったのかまとまらないんですけど。


だから、やまはやま、うみはうみで、それぞれちょうどいい神楽があったんじゃないかなあ。
そういう意味で、八調子がひろく山を越えちゃってまで伝播したのは、桜江の某先生がいう「身体の西欧化」がなしえたことなのかもしれない。

西欧化は海からやって来たのか。
革新は海からやって来たのか。
ニライカナイ


だからね。
自分を正当化したくって、守りたくって、他方をよくよく考えずに皆いってるからって馬鹿にして貶めていると、実は自分を作り上げている要素そのもの、根底そのものを貶めていることになるときもあるし、誰かが馬鹿だなあってクスクス笑っていることだって、ないとはいえない。

正当化したけりゃ、きいてー!おらっちすごいんだぞー!でいい。
比較対象、見下す対象を付け加えるのはナンセンス。


と、おもったりするのですよ。

本について考えてみた

※注:今日は神楽の話はしません。

ちょーねむい。お疲れぽんなので、備忘録として。

まるでテンプレートのように、昨今の出版事情の難しさについて言われることにたいして、私なりに考えたことなぞ。



著者が著者になるハードルが下がったと同時に、書店で本が売れない、ということは、つまりマッチングの効率が悪いってことなのよね。たぶん。


なんというか、いまって、効率よくてナンボ、目的のものに到達するまでの行程とか、寄り道とか、段階が少なくてナンボ、な気がするのです。

辞書が、電子辞書へ、電子辞書がインターネット検索へと移ったのなんか、象徴的なんじゃないでしょうか。
一発で解を出すには、ネット検索が強い。

でも、塾のとき、子どもに、どうして勉強するときは辞書じゃないとダメっていわれるの?って聞かれたら、辞書は、その文字の周辺にも知識があるからだよと教えていました。思いがけない寄り道で、思いがけない教養というか、知識の幅が広がるからと。辞書や図鑑の面白さはそこにある。
だからほんとは辞書よねー。と、思いつつ。
いまは、なかなか辞書まではいかないけど、大事なときは電子辞書です。ネットではなく。


書店って、いうなれば辞書。
ひとつの言葉、ひとつの書籍にアプローチするまでに、いろんな文字の棚の間をあるいて、キョロキョロして、時々違うものに惹かれて立ち止まったりしながら、ようやくたどり着く。
その時間が、知識になるし、ゆるやかな時間の過ごし方だと思います。

だけれども、いま、書店という辞書のなかに、新旧ジャンル様々な本がたくさんありすぎて、情報がごちゃごちゃ闇鍋のよう。ありすぎて、求めるひとつにたどり着けない。
あるいは、その時間が惜しいというスピード感。せっかちさもある。
物理的に近くの書店で手に入らない、ということもしばしば。

だったら、ネット書店で一発検索、いまいろいろあるけど宅配便で自分の手元まで届けてもらったほうが、圧倒的に効率がよい。

と、いう意味での、書店で本が売れません。日本人の本離れ、となるのでしょう。
まあだからといって、昔のひとがそんなみんながみんな本の虫で本を読んでいたとは思わないんだけどな…需要側が供給より大きかっただろうし。まあそれは余談として。



反面、自分、あるいは身内、知り合いの記録のために、本を作りたい、という本作りの需要は確実に高まっています。
安くはないけど、それでもお金を払って本になるならしたいという。

「遺したい」というニーズが一定数あるということは、市場として成り立つというわけで、でも一般書籍市場としては、書籍の供給過多になって、儲かりませんなという。

やっぱりさー、その著者あるいはその題材を知っているから買う、っていうのが購買動機としてはカタいよねえ。知らないとハードル高いよねえ。
書店では立ち読みして多少吟味できるけど…ネット書店の本の紹介とか、感想とかって当たるときと外れるときの差が激しいというか、ちょっと賭け。

著者は、売って儲けるのがゴールなら、それは自身のスキルと知名度を大いに上げなきゃいけない。
遺し、渡るべき人の手元に渡るのがゴールなら、そういうシステムだと、よりそのチャンスが増えるような気がする。

特に地方出版的には後者の著者でないと現実難しい。
地方だから印刷会社、出版社そのものの知名度が低いのに、そこで誰?みたいな著者が本を出して、利益を出そうと思うのは、どんな宝くじですかというわけで。



話ずれたけど。

だからといって、「自費出版」として、著者が自分の周辺だけに配るに留めるには惜しいものも、たまにある。
丁寧あるいは貴重な研究論考だったり、あるごく一部のひとの琴線に触れうる内容であったり。


書籍のよさは、のこること。
紙は残る。水害や焼失はなんともいえんけど、デジタルデータより残る確率は高いと、私は信じている。
これが反証される時代が来たら、私は職をなくすわ。ふつーに。だから、そう信じていたい。


でもその書籍を、求める読者にきちんとマッチングさせるためには、ビッグデータ的な?もう総括して、一般書籍と自費出版を管理しているようなシステムが理想的だよなあと思ったのであります。

よくある就職サイトみたいなかんじで、チェックボックスで自分の興味のある項目を選択していたら、国内で出版されている本をリサーチかけて、一般と自費両方で、候補が出てきます的な。
周辺で似た感じなのが、サブで出てくると理想。
どうしてもやれないものは図書館だろうなあ…そっちも連動したらサイコー

ただそれだけでは書店は儲からんからなあ。
その本を取り扱っている書店情報、どうしても買いにいけない距離で取り寄せとかになるんだったら、その書店のおすすめ本情報とかも画面上かチラシ的なので見せるとかかなあ。
五回くらい同じ書店だったら、書店招待券的な。なんてそれはどう考えても無理だろ。


自費であれば著者へか、印刷会社へかに問い合わせ。
案外増刷とか、出版物での再出版とかも夢じゃないかもね。中身と資金によっては。
最初の印刷会社が面白くないと、面白くないので、刷るのはそこが優先だけど、出版社がそこでアプローチかけるチャンスもある。


とか。
なんかそういう仕組みになったら面白いだろうなー。
難しいんだろうなー。

キャラクター


家で、いただいた神楽カレンダーと、前年までのやつで切って取っておいてある写真を、歯磨きながら眺めていて、やっぱり本質はこのキャラクターそのものへの愛情なんだよなあと思ったのです。

結局のところ、面を外して化粧を施すことでは、「個人」あるいは「我」を消し得ないというか。
なぜ面をかけるのかといえば「我」をあるものに"依り"添わすためだから…


たぶん、たぶんなんですけど、最近ことに言われるある人にたいする「おっかけ」が増えてきたのは、化粧舞の文化にも関係があると思うし、すごい語弊はあるんだけれども、「我」のある証拠なのだとも思う。
キャラクターの向こうにいる「個人」を見てキャーとしているというか…

まあ私も師匠キャーとか同じようなもんなんですけど。

何を舞っても、何を奏しても、魅せる人はおられます
あるいは、この舞はこの人!みたいな名手もおられます。

でもその場合って、「この人の○○はええなあ」なのですよね。
「この人の胴はええなあ」「この人の神はええなあ」「この人の鬼はええなあ」
その人を通して聞かせる音や、たち現れるものたちにたいしての"ええなあ"。


「○○のあの人がカッコいい」だと、それの向こうにいる「あの人」を見てしまっている。


化粧だと顔面の良さとか、声の良さとかそっちに意識もいってしまう。
面をかけて、顔がわからない、声も面越し、それでも美しい所作で魅せるか、どれだけそのキャラクターそのものに生き生きとした肉体を与えるかが、能とか仮面劇の真髄だとも思う。

うーん。よくわからなくなった。

くろつか

前に「黒塚」は、(石見弁が)何言ってるかわからんし、なんかネタ的によくわかんない。ってぶつぶつしたとき、でも「黒塚」はそれでも石見神楽の大切な演目なんよーって、教わったことがあるのです。

もともとは、夜明かし舞でしか舞わないし、なにより神仏分離令や、仏教要素排除の動きがあった時代に、それでも無くせなかった演目。

いわゆる、現六調子地域には無いやんってツッコミが入るかもだけど、そもそもあのあたりは夜明かし舞がまれであったのではないでしょうか。記録で見ると、能舞を奉ずる祭りが少ない。式年祭は神がかり神事がウェイトをしめるし。
例祭でも夜明かししちゃおーぜー!舞っちゃろーぜー!はお祭りが好きな?沿岸部の文化ともいえましょう。
もしかしたらだけど、執り行うお財布事情とかもあるのかもね。


鉄板ネタももちろんあるらしい。
ちょろっと聞いただけだけども。

いつか、ゴリゴリの、ほぼオンリー鉄板ネタの「黒塚」を見てみたいものであります。

鉄板ネタというのは、方言は早口だしちょっと難しいけど…でも、世代や環境とかを超えて笑えるからこその鉄板なんじゃないでしょうか。

だからこそ、難しくもある。

そのキャラクターたちがもつ雰囲気や、間合い、話し方、立ち居住まい。
名手はおられるはず。


その空間に身を投じてはじめて「黒塚」の本当の面白さが感じられる気がして。
ぜひいつか感じてみたいものであります。

春なわすれそ

車を走らせていて、陽射しもそうなんだけれど、なにより山の色が変わってきたので、ああ春が来ていたんだなあ、って。
黒々した色から、赤みを帯びてきた。
まだ梅も悩みながら、つぼみは固いだろうけれど、確実に頬を染めてその時を待っていますね。
早咲きの桜かなにか、梅じゃないのが少し咲いているのも見かけました。
雨も少しずつトゲトゲが取れてまろみがでてきた。


いつか、梅林というのに行ってみたい。

山根さんかな?曽我兄弟の演目あったのと、歌舞伎でも有名ドコロ、「外郎売」としてもしられている、曽我の梅林は比較的地元なのですけれども、行ったことがなくて。それもまた悔やまれる。

たぶん距離でいえば電車で30分なので、出雲かその手前らへんくらいの感じでしょうか。

曽我の梅林の梅干しは酸っぱくておいしい。


桜は私の誕生日の花なこともあって、好きなのですけれど、島根に来てからは梅のほうが、春来るらしな思いがして、咲いているのを見ると嬉しくなります。
こっちのほうがやたらめったら寒いぶん、梅が咲いて春の訪れを告げてくれるのがありがたい。

あと、神楽歌でよく聞くようになって、美しいなあって思うからかな。


拾遺和歌集」「源平盛衰記」などでは
東風吹かば にほひをこせよ梅の花 主なしとて 春を忘るな

ですが、

「十訓抄」「太平記」「荏柄天神縁起」などでは
東風吹かば にほひをこせよ梅の花 主なしとて 春な忘れそ

となっているようで、神楽歌でも歌われる人によって違う気がします。「春を忘るな」がなんとなく多い気がする?

そういえば荏柄天神っていえば……鎌倉。一回だけ確か行ったことがあるけの、なんかビミョーに遠いところにあって、やぐらがある天神さんだった気が。昔はよく鎌倉は延々歩いたものです。


話は戻りまして、個人的な好みでは「春な忘れそ」のほうが好き。
「な~そ」の用法って、「~してくれるな」って、祈りとか願いに似た禁止の意味合いが「忘るな」より強い感じがして。

梅よ、どうか春を忘れてくれるな、の思いのなかに、私にどうかお前の匂いを届けてくれ、春を運んできてくれ、という願いがあるような。
春を、だけど、私を、でもある。
私のために、咲いておくれよと。
東風が吹いたら主の私を思い出して咲いておくれよと。

そんな気がするのです。



前に、ちょっと言ったかもだけど
梅は私のところへ飛んできてくれた、桜は私をおもって枯れてしまった、松よお前は変わらずそこに立っていてつれないなあ、の歌
松は待つ
だから、彼は一人、主が戻ってくると信じて、帰ったとき主を屋敷で迎えたくて待っていたのに、つれなかるらんとは、主はつれなかるらんと思っていたし、やっぱりいまでもちょっとそう思う。

でも、菅公は、自分が帰れないと悟っていたからこその、つれなかるらん、だったんだろうとも、この頃思うようになったのでした。
帰れないから、どんなに待ってくれてもその健気さに応えられないから、松よお前はただ立ち止まってじいっと待つばっかりなんだなあ、といううらめしさ、さみしさ、切ない気持ちもあるのかなって。


追いかけるがいいか、悲しみ朽ち果てるがいいか、前にも進めず立ち止まるがいいか、どれがいいんだろう。どれもなんだか幸せではないよなあ。

やっぱり主はつれなかるらんだ。

おもて、のこと

昨日の続きをちょびっと。


師匠が教えてくれた、「変わったら舞が変わる」シリーズのなかに、面が変われば舞も変わる、というのがあるけど、結局これも昨日のやつに繋がるんだなあと思ったのでした。
舞手は面に、肉体を貸しているから、面がその人の肉体で舞っているから、面が変われば、面の性格も変わる。だから、舞が変わる。

良い舞手は面に肉体を貸しきれる人、面と対話をできる人だよと言われて、はああなるほどなあって。

たまに、能とか神楽とかで感じる、面が本当の顔みたいに泣いたり笑ったりしているのって、面そのものの造形、舞手の所作、型の習熟度だけではなくて、面とその舞手がうまくリンクしているときなんだなあと、思ったのです。

自分が自分がと、自己顕示欲というか…我が強いと、どんだけ端整にしていても、たぶん本当に良い舞は舞えないのではないかな。
面と自分が戦ってしまう。
面のキャラクターに寄り添えない。体を貸してあげられない。
逆になんか残念感があるときは、こういうときなんだろうなあ。


あとやっぱり、去年の夏くらいにいったかもだけど、具体的すぎる表情とか、作り込みすぎた面だと、またそれはそれで私としてはしっくりこない。
というのも、名手の生まれる面、名手を必要とする面、良い面は、抽象的な造形というか、なんともいいきれない曖昧な表情が多いですよね。

極端な話、兄まあさんも、あんなお顔ですけど、あれがどんな感情であるのかは、言い表しきれませんね。いわゆるひょっとこみたいなオドけているかといえば、どうもそうともいいきれない感じ。でも、確実にあの面にはあの面の性格がある。あの面の舞がある。だから、あの顔で受け継いできた。

曖昧な表情というのは、逆に、あらゆる表情ができるということ。感情を多様にあらわせるということ。
笑った顔は、まだなんとかしようがあるけど、目をひんむいた怒った顔は、どうしたって怒ってる。つまり、怒ってるとこしかあらわせない。

あ、だから面を変えるという文化が副産物として生まれたのかもしれないなあ。
わからんけど。

能面の般若面は、あんな顔だけど、泣きますからね。
橋姫もだけど、彼女たちはちゃんと泣ける。いや、もともとあれは哭いている。

面が泣きたいときに泣き、笑いたいときに笑うことのできる面が、いいなあ。そしてそれを生きたものとするのが、舞手。我が強いと、生かせない。



そうそう、権現様とか、神楽でも面がご神体となっているのも、そういう面のもつ力所以なんですねえ。
権現様は、人の体を借りてうきうきと舞いあそび、祝福してまわる。
あのなんともいえないプリチーな感じは、舞手の体を確かに借りて自分の守護する人たちのところへ出かけていたからなんだろうなあ。


現実と非現実、人間とそれ以外の境目に面がある。

おもて、についての説明をもう一回聞きたいな。


最も原始的な儀式では、化粧がはじまりのはず。
その次に、面。
文化人類オタクの先輩に聞いてみよっと。

妓楽とかあのあたりから面の文化は確実にあって、醸成されたのが能、狂言で、あえて化粧に戻って、自分の顔を生身の面にしたのが、歌舞伎、ということなのだろうか。

うううーん…思考がうまくまとまらないなあ。

なんで歌舞伎は化粧なんだろう。
登場人物がおおくて面が足りないとか?能への反骨精神とか?傾きたいから?

よくわかんない。


あれよね、化粧は稚児に施してたと思うのよね。
あー歌舞伎の歴史について教わった気がするんだけど…忘れてしまった。野郎歌舞伎の前に関係がありそう。

人はなぜそんなにばけたいのか。



なんか、いろいろ。もがもが。もがいてももがいても。

めそめそ太郎は面をかけられない

タイトルはとくに意味がない。

なんかよくわかんないけど、落ち込みぎみで、昨日はなんか家帰ってからずっとめそめそでした。今朝の顔は最悪だった。
今日もちょっとめそめそ。
何が悲しいんだかよくわからない。

でも仕事以外で声出してしゃべる話し相手がいなくなって久しいので、涙を出すのはちょっとスッキリする気がする。
強くならなきゃなあ



能面の本を読んでのメモなぞ。

能はかつて田楽能と猿楽能があって、いまは猿楽能をルーツにもつのだけれど、そのルーツは奈良時代に大陸から渡来した散楽なのだそう。平安時代に猿楽となったのか。田楽も同時代の成立なのだろうなあ。田楽は、田植え踊りとかそっちに残っているはず。
能、狂言は、音楽、舞踊、演劇の融合した、総合芸術だとあったけど、採り物神楽系統もこの部類にいれていいと思う。能楽が少なからず影響を与えているだろうし。

総合芸術は、プロパガンダとしての役割もあったのだろうと、私は思うのです。

いつの時代も宗教と芸術は隣り合わせだったから。文化とはそこから生まれてきたから。


能面は、神仏、天人、鬼神、仙人、亡霊、動植物の精など、あらゆるものを表現します。
興味深いのは、生身の、特に壮年の男性は直面で、老人と女は面をかけるということ。
男性、しかも稚児とかではなくて、ちょうどよく熟した歳の男性が担ってきたのだろうし、その男性そのものが「現実」を唯一あらわすものだったんじゃないかなあ。老人や女は、おなじ人間であるけど、彼らの感性的にどこか「現実」ではない存在みたいな。

狂言では、女は直面で表現する。
狂言のほうがより世俗的というか、大衆に近かったから、女もまた「現実」に生きる存在であったということかなあ。

能と狂言が、いつの頃からなのか不勉強なのでわからないのだけど、寄り添って生きてきたのは、夢と現実、陰と陽、ふたつでひとつの世界をあらわしてるからなのかなって。離してしまったら、どちらかが廃れて消えてしまったら、もう一方は世界の半分しか表現できなくて、きっとそれもまた消えてしまうのかなって。


読んでいた本でいいなあと思ったのが、面のことを「変身の道具であるとともに演出家に似た絶対的存在」といっていて、これが「面」のもつ力だし、彼らがそのものを神体として大切にする所以なのかなあと。
舞う人が、個という人間を超越するための道具であるし、面そのものがキャラクターであって、人はそのキャラクターに抗わず寄り添うことで、ある個という人間を超えた「なにか」になる。
人が演じるんじゃなくて、面が肉体をもって立ち現れる感じ。

きっと師匠なら言いたいことわかってくれる…は、ず?

むずかしいなあ。


石見神楽において、面は、神体としての役割を持たないけど、神職の時代からずうっと顔を変えずに受け継がれてきた面なんかは、おおよそ近い存在なんじゃないかな。
般若面、兄まあ面、切目面、とか。
そのものが性格を持っている。


能楽師狂言師は、「磨きあげた感性と知性で、融通無碍、自由な世界に遊び、愛情に基づく面の使用選択」をするとあったけど、おそらくは、神楽面も含め、古老から受け継がれる、その面のキャラクターを知りつくし、演目を知りつくしている人が許されるアソビなのでしょう。
面とともに舞い遊ぶ。


いやはやなんとも、知り得ない世界なのであります