舞ひあそぶ

神楽のこととか、備忘録の掃き溜め。

ことばについて

ところでこの前子ども用の新聞見ていてほほうと思ったのですけれど、銀山坑内で、下働きというか、ざっくりいえば若いパシリを「手子テゴ」と呼んでいたらしい。

てごしてくれえの「てご」って、これから来てるのかしらとか、妄想。

ほかにもいろいろ考えてたけど、眠くて忘れた。


調べたら、「手子テコ」は女の人のことも指すらしくて、田子の浦のタゴはこのテコから来てるらしい?斜め読みだからちょっと不正確かもだけど。
あと、横浜に手子神社ってあって、なんかいわれもいろいろあるらしいけど、オオヤマツミが祭神なのが興味深い。

出雲だけが特別なんじゃないのよねえ。変わり種ではあるけど、完全なる独立言語ではないということは、住んでから気がついたこと。思っていたより石見との共通項というか、重なる領域がある。

方言って面白いなあ~

やっぱりなんか憧れ。
わたしも出雲と石見のバイリンガルを目指したいけど、もはやカオス。会社の人たちが解説なしでゴリゴリに出雲弁なので、若干そっち強めかも。
今日お客さんが、ねんたがさばったをナチュラルにいってて驚いちゃった。

石見、浜田弁は単語がまだよくわからないときがあるのと、なんか聞き取れない時もある。


神楽歌は、その点、チャリを除いてほぼ方言的表現は削いでいる?
口伝での継承の難しさは、これ。発音とか、影響受けるから。崩れというのは、そういう要因もある気がする。
大和言葉というか、方言とは別の言語表記だからこそ、他の地域との比較もできるし、共通項とかも見られる。

それは夷か恵美須か

二宮、多鳩さんのおはなし。

敬川から有福の下を通って、飽きたので9号に合流しようとしていたら看板を見つけたので寄ってみたのでした。

人んちの横の細道から山を上ったら、あるかんじというか。
大麻山みたいにてっぺんにあるわけでもない。昔はてっぺんだったらしいですけれど。
なんだろ、例えにくいなあ。お宮周辺の雰囲気は、宮尾山とか松尾山系。威厳があるけど、なんかどこか怖くもある。異空間なかんじはすごい。木々が圧迫してくるというか。
でも、お宮の真上は木がないから、そこだけ柔らかい光がキラキラと射し込んでいて、優しいのか怖いのかわかんない。

あーーーよく考えたら、山のお宮って結構そういう風に感じるとこが多いかもです。

そんでもって、ものすごく沢が主張していた。
山からにじみ出た水なんだろうな。絶対ブヨいるやろって確信するレベルのきれいさ。水量も結構あったんじゃないでしょうか。とにかくブヨ怖すぎてゆっくり観察できず。
しかも石畳の間にめっちゃサワガニいた。めっちゃサワガニ。
湿度高めだからか、すごくスベる苔が、石畳全体に蒸していて、そう頻繁に来訪者もないのかな、と思ったりして。


でもさすが二宮、かなり大きい。
お宮の作りはちょっと独特で、大社造りといえばそうなのですけど、奥に向かって長い。配置も変わってるかなあ。鉤型。
入りは随神門。
あと、多分昔はセットだったんだろうなってお寺が横にありましたね。
ほんとにブヨ怖すぎて、長居できなかったのですわ。頭の回り五月蝿なす神々が飛び回っておりましてね。

あ、あと拝殿の奥?に獅子頭がおられました。
多分、ベンガラ色?赤くはなかった。
ああやって見えるところにおられるのは、石見でははじめて見たかも。


ほいで、多鳩さんは、事代主なのだそうで、由縁は、石見開拓の祖、あそこが終焉の地だとの事。まあ、一書曰く、ですけど。
しかも国譲り神話なんて知るか!ってかんじだけど、それでもお上に認められたお宮ということで、興味深いですね。うむ、その強引さ、嫌いじゃないぞ。

出雲と石見の、古い時代の関わり合いを示唆しているのかもしれないし、わざわざ「北西に面し」と書いてあるのも興味深い。日本海に向いてるんだって。
それでその神威は「しばしば航海中の船舶を停止せしめ」たとあるので、なんちゅーか、やっぱり前にも書いたけどそら恐ろしい神な気もしたりして。

あと、そういう点においては、「恵美須」ワッショイなのもひとつ合点してもいいかも。


摂社?わきには、大元、高神?、住吉、八幡、若宮、稲成。
高神って、タカオカミかな?土地的に。

石見らしい構成ではある。けれど、若宮は珍しいかも。興味深い。心に留め置く必要があります。

あ、あと、水の出るところというよりその淵?みたいなとこに、藁蛇なのかは自信ないけれど、ずっと昔からそれにだけ注連縄の房みたいなのがついた縄が巻き付いている木がありました。シデ?じゃなくて、房みたいな方。


ふうううん。なんか、不思議。

それでもって、家はあるんだけど、微妙に集落とも離れている気がするし、「神主」という地名をもつ土地ともちょっと離れてる気がするのよねー。
もともとの神域がそれだけ広大だったのか…なんなのか。


石見国三社というのが、
ウマシマジ(物部氏祖神)プラス天地開闢の神勢
あ、最初はナガスネヒコの下にいたのね。そいでこれも終焉の地。

コトシロヌシ(国つ神)プラス、ベタな皆様

アメノイワトワケ(天つ神)プラス、タケミナカタ(国つ神)

というのも、なんでなのかなーと思ったりして。
どうしてその面々だったのでしょう。

ふーむ。勉強不足。

ちょっと、ひとりでいくと落ち着かないかんじなのだけれど…万全の虫対策をして、もう一度いくべきか…ふむむむむ

ちょんぼしの五神考

五神のめも。
兄たち四神は「神迎」の道行き。左回り。
春青が起点。一番神座に近いところ。

「神迎」の道行きで舞庭を調えることで、埴安を迎えるってこと?

よく考えたら名を名乗れーのくだりは、いわば問答よね。でもあれは予祝とか呪的な意味合いではない。勝ち負けないから。
あくまでもあのくだりは、世の理を説くためにあるというか。
仏教的な理と、儒教道教陰陽道(宿曜道?)の理、日本という国を鎮護するために取り込まれてきた理。

いろいろ調べていて、この「五神」の思想やらやらは神楽の芯にあたるものだと考えられるのです。この演目だけで本書けそう。誰か書いて。

でも本当は、明治政府的にはあれはあーんまり好ましくない演目だと思うけどなあ。だから、五龍王という名前を捨てたようにも思う。
まあクニトコタチだからセーフっちゃセーフか。


埴安の道行きがなにベースなのかわからない。
神迎→???→鬼囃子?→???舞い上げ???
鬼囃子?と舞い上げは演目によってそうそう変わるとかはないのかなあ。

仮定というか、ある規則性にのっとれば、
地固め→神迎(神降ろし)→言葉出てこないけど饗宴的なの→神上げ、の流れがあるはずなのよね。
起承転結的な。

多分、祭りの大枠の進行だけじゃなくて、演目でもこれにのっとってるのが多いと思うんだけれども。


あと師匠に指摘されて改めて気づいたことですが、
なんとなく、普段の感覚的に、方角における四方・四神で捉えていたのです。北起点というか。北が決まって他の位置が決まる感覚。でも神楽とその周辺世界では、東方青龍が起点になって考えないといけませんでしたね。

ううううーむ混乱してきた。勉強不足。とりあえず寝よ。

ホルマリン漬け

私は、神楽の話をするとき、神楽は時代の変化に合わせて形を変えながら生きてきたというけれど、では、「古式を残した」ものはどうなんだろうかと改めて自問してみた。

今ひとまずの解としては、それもまた一つの時代に則した「変化」ではないかなというところ。

ある日誰かがふと立ち止まって、振り返る時のために残さなければいけない時代、あるいは「古き良き姿」「昔ながらの姿」に絶対的価値を見出だす時代でもあって、そういった時代の要請に応えて、時間を止めた。
そもそも時間を止めてしまえるような、「古式」を謳えるようなところというのが少ないので、余計に価値とされる。

そういう存在はもちろん必要。
しかしながら、とも思う部分もあるけど、必要な存在であることには間違いない。
そういう時代でもある。


しかしながら、我々が気を付けて耳を傾けるべきなのは、ほんとうに、根っこから枝葉まで一度も途切れることなく、ほんっとうに古式をそのまま正しく継いでいるところなんて、無きに等しいので、正統なとか源流だとかそういった言葉は穏やかにしかし注意深く捉えなければならない。

全国等しくそういえる。

少なくとも、明治初期。大多数はまずここで一旦途切れる。長短の差はあっても分断される。
そして、昭和の戦中後、高度経済成長期。
みんながみんな等しく時代の余波を食らっている。

必要があって復活したものが多いと思うけど、求められなくて消えたものでも話題作りのためだけに復活することもある。



今残っているものたちは、担い手を変えた。あるいは芸態様相を変えた、それは踊りだろうが舞だろうが歌だろうがとにかくイチャモンつけられたもんは変えた。まず明治初期は大方これ。
残りは中央の目が届かない辺境の地であったか、一番入り口に近いところだけ、ようはパッと見だけ迎合したように見せかけて他は残した。残すために誰かが犠牲になって変わった。

八調子が生まれた背景、大元祭りを捨てた背景も、ただの海の民と山の民の嗜好の違いとか、娯楽を求めたとかそれ以前にこの時代と、浜田の土地柄があるんだと思ってる。少なくとも、私は。
浜田が変わらなかったら、六調子も守れなかったかもしれない。みんな共倒れしていたかもしれない。


昭和は以下省略、だけれど、掟すら変えざるを得なかったところもある。

担い手がいなければ継げない。
受け手もいなければ継げない。

ただでさえ、ナマモノ。


一人の人間なんて、ほんのわずかな時間しか神楽やそういったものたちに関わっていないのに、その前後ほんのわずかな時間しか見つめられないのに、どうして、確信をもって変わらないだとか正統なとか源流だとか言えましょうか。

化石じゃないつもりなら、なおさらに。

東の亀さんの娘さんは、それを「ホルマリン漬け」と呼んでいた。ふと思い出した。

もちろん、その言葉を気概を誇りとして、全てとしている人もおられる。叩いたらこっちが怪我をするのでそこは穏やかに微笑みながら、でも自分の眼で冷静に見つめなければいけない。


それでも人は、遺すんだよな。

がおおおお

取引先へお使いごとへ。
いつも話し込んでしまうけど、たまたま探し物についていって書架を覗き込んだら、伊勢大神楽の本を見つけちゃった。
いいなあいいなあ言っていたら貸してもらえました。わあい。ラッキー。

たしか麒麟獅子の研究をしている人だよなあとおもったら、やっぱりそうでした。
もう亡くなられてしまっているらしい。そうか。残念。


まず面白いのが、獅子舞の英訳が
Sacred Lion Dance という。

名詞の修飾だから意味合い的にも…神聖な、神の使いの…あたり?
単純に読めば、聖なるライオンの踊り。……オオゥ…
唐獅子はどっちかといえば狛犬と同系統なんだろうけど、がおおおの方になるのか。

堅実に判断すると15,16世紀成立と見るのがいいようですが、桑名ね。桑名。なんだろう、なんか聞き覚えがある場所だなあ。
そこに残っている獅子頭とか見ると、やっぱり岩手のプリチー権現様の獅子頭も、大神楽のそれを模しているのがわかります。チリチリ頭みたいな。九字なのかな?白い紙で作ったモジャアとしたタテガミ?がくっついてる。

社風神楽だったかな。頭からかぶる権現様がいくらかありましたが、あれは完全大神楽の色がありますね。
多いのは腕と手で扱う、小ぶりな権現様。
それでもって、鹿踊りに顔が近い。
たしか、あのふたつは兄弟みたいなもんという本を読んだぞ。

ということは、素直に大神楽を参考にした頭と、なんかなぜだかトランスフォームして獅子と鹿に分かれた頭があるんだな。ふむふむ。なんでだ?

あ、社風神楽は神職がほかよりもうワンステップ担い手として関わっていたところだから、そうなると神職が伊勢系だったという仮定も立てられるかもですね。
頭、あるいはそれに必要な材料や技術が伊勢で整えられた可能性も考えられる。対して、現地で生まれたのがもう一方の獅子、そこから分かれて鹿、とか?

ふーむ。

すんごく雑にメモすると、大神楽の発生地点では、伊勢のお札を持ってる系の集団と、回り神楽を持ってる系の集団が、じゃあお互いに持ってるものを分けあいましょうねって、お札を持ってる系の集団が回り神楽を習って東日本へ、回り神楽を持ってる系の集団がお札をもらって西日本へと行脚したらしい。
なんという。スゴいな。
どっちかが、こりゃうちのだからって占有していたら、今のような獅子舞の超広範囲な伝播はなし得なかったわけですね。スゴいな。

そしてこの人たちの特筆すべきは、その芸態に影響受けた獅子神楽は生まれたにせよ、大神楽そのものは自分達が担い続けて、現代におけるまで回り続けているということでしょう。
その土地のもとある文化を駆逐するのではなく、お役目を果たして去っていく。そしてまた来年やってくる、みたいな在り方。
まあこれについてはもう少し読み進めないと本当にそういう見解でいいのかわからんですが。今のところの印象として。


ただ、ご多分に漏れず明治4,5年は政府から禁止の通達があったよう。
村を渡り歩いて神楽奏して見返りもらうなんてけしからんとか、お札を配って歩いてけしからんとか?そんな感じかな?

なるほどねえ。

そう思うと政府は政府で結構それぞれの地域の神楽の特色について把握した上でテキメンの禁止令を通達してる感もありますな。

マジで新政府のおかげであらゆる文化が大打撃だ。


そうそう、あとこの人の文を読んでいて、普通神楽とはカムクラから派生したもので、その字は「神を楽しませる」ための供物として、という論調がポピュラーだと思いますが、「神がたち現れるときの楽」というニュアンスでは、みたいなことを書いておられてホホゥと。結構その論好きかも。
誰が楽しむか、というより、その楽によって神が現れる様子を表したりとか、が確かにしっくりくるような。
楽しむ楽しまないはまたそのあとみたいな。

なるほどねー。


急に眠くなってきた。
また明日読んでみましょうかね。

まいあそぶ

最近つとに思うのが、結局のところ大いに思考して知り得ない世界を垣間見て楽しむためには、衣食住と心身が調ってないと難しいんですわね。

考えたくても、今日のご飯どうしようが頭のなかを占拠していたらいけんのです。


心も荒れ荒れなので、途中だった恩師の本をまた途中まで読んでみた。
先生の本は難しくて一章ずつ進むのが精一杯なんだけど、なんだか読むのが楽しい。先生の声が聞こえてくるようで。中世の芸能への愛がモリモリで。
最近こういうひたすら愛を叫んでる本を読む機会少ないな。


で、また神楽とかについても通じそうなこととか。めもめも。

平安後期から中世にかけて、新嘗祭のときに行われた五節という…ようは宴会芸的な?のが宮廷であったみたいで、それがまあ時代を下るごとに盛大な乱舞となったらしい。「芸能尽くしの宴」とな。

もとは、貴族たちが、娘の宮廷出仕の絶好のチャンスとして、天皇を前に舞を奉ずる娘たちをとびっきり美しく着飾り、つかいの人たちや控えの場をいかに美しくしつらえるかとしのぎを削ったのが、院政になって外戚関係とか望むどころじゃなくなって、自分達が楽しんじゃおーぜーに変化していったらしい。
だんだん、娘たちの舞メインから、今様とか白拍子とか?即興で舞っちゃうとか?

モノクロだからわからんけど載ってる絵巻の人たちの頬が赤く見える。しこたま飲んでそうな感じ。

行くとこまで行くと、もう、帰るのも名残惜しくて、宴でやった芸能とかをもう一回ループしちゃうし、それぞれ立つたび歌を歌って足を踏み鳴らして帰ったらしいとか。

どんだけ好きなんじゃ。

というか、一番上のほうがそうやって舞い遊び狂っていたんだから、そりゃあ、下のほうも熱狂するも当然なわけで。
雅楽が公式にせよ、もっと世俗に近い芸能もまた大いに楽しんでいて、同じようなものを上も下も見ては喜び笑い享受していたんですね。


結局この構図って、特に今の石見とか、本当に変わらんのじゃないかなと思うのです。
芸能の本来の姿って、こうなんじゃないかなって思うんです。

みんなが楽しい。みんなで舞い遊ぶ。
上も下もない。
人を唸らせる名手は評価されるし、反対に身を持ち崩し滅びる人もいる。

その前段階として
天皇であったり、神であったり、一番敬っているものの前に立つとき、自分のもてる一番の設えで、一番の美しさで、一番のセンスで着飾る。
そのさらに前には、新嘗祭とか秋祭りのように一番の初物、一番良いものを捧げ奉る行為や心がある。

儀式として、心構えとして、それは踏襲しつつも、やっぱり自分達も楽しみたいよね、という気持ちがだんだん出てくるのでしょうか。
みんなでわいわい、酒を飲み交わしつつ、歌を歌いつつ、時には体も動かして、舞い遊ぶ。

そしてそれが、天皇や神を喜ばせる。

ある意味これが日本人、大和のDNAなのかな。


それが、宮廷だって辻だって戦場だって関係ない。
いや、だからこそ舞うのか。今この時この場所だからこそ舞う。歌う。この時代だからこそ。


乱舞の系統でいくと、僧侶もまた担い手らしくて特に奈良の辺が多いのかなあ。延年というと、なんか岩手とか奥州藤原氏、平泉なイメージだけど、その元祖ってよく考えたら都だもんなあ。

なんと読んでたら我らが頼長殿が出てきた。ビックリしたなあ。もう。
クッソ真面目な頼長殿は「僧に似つかわしくない」って眉をひそめちゃうくらい、舞とか歌とか、そういった身体表現が自然と出てくるような時代だったんだということなのでしょう。

それがまた、身分を越えて心を通わせることもあったりして。きっと、頼長殿はクッソ真面目すぎてその時代に適応できなかったんじゃないかとも思うね。うん


読んでいると、抱腹絶倒な乱舞で超大盛り上がりしたで、みたいな記述も結構出てくるんですが、抱腹絶倒する乱舞って想像つかなくて、当時どのようなものが舞われていたのか本気で気になる。

岩戸でも、ウズメちゃんが神楽を奏して神々が大笑いしたってあるけど、もともと、多分少なくとも古代から中世は確実に舞と笑いがセットだったってことよね。
それが「舞」なのよねえ。
「踊り」じゃない。

今はどちらかというとそういう要素は「踊り」が担っている気がする。
そもそも「踊り」が発生したのはいつの時代なんだ?

一遍のなんとか踊りは「踊り」だし、阿国のかぶき踊りも「踊り」。時代がよくわからんけど。
一遍は鎌倉か?
うちの近くっちゃ近く、地元ら辺にたしかお寺あるし。鎌倉仏教だったかしらね。
むむむむむ


今神楽で抱腹絶倒系というのは、全国的にいわゆる男女和合・五穀豊穣系。おかめとひょっとこ、翁と嫗がポピュラーじゃないかな。

石見でいえばチャリだけど、チャリ舞は案外男女和合系少ない。
「五穀種元」くらい?五穀豊穣を表してるから、あれは大元信仰の名残というか、大元祭りの時にはすごく大切な舞。なくしたらいけない舞。って、師匠もいってた。
「大蛇」でじいじとばあばがいちゃつく時があるけど、あれもこれの部類なのかな。

でも、「八十神」「日本武尊」「黒塚」「五神(の使い)」、おおよそやられる「貴船」とかとか、あれは男女和合じゃない。なんでだ?
これだけ全力で笑いをとる系で、男クサイのって珍しいと思う。多分。

とはいっても舞で笑いをとってる訳じゃないしなあ。

舞で、腹がちぎれるほど笑うってどんなんなんだろう。見てみたい。それを目撃しにできればタイムスリップしたい。


これだけ妄想させる先生はやっぱりスゴい。
はあ。

至極の舞と楽の空間のなかに身体を浸してそのまま空気中に粒子となって溶けて無くなってしまいたいよ。

のう 

松江のどこの神社だったか、忘れてしまったけれども、遷宮かなにかの記念として能を奉納したという絵馬?を見たことがあって、何となく気にしていたのですが、この前たまたま本を見つけて読んでみたら、松平家松江藩主になって以降、時代の流れに漏れず能楽文化の記録があるらしい。
かつては城内にも能楽堂とかあったのかなあ。

仕舞系は家老?の家でも執り行ってたっぽい。


自分のなかで、佐陀神能の成立とか、その後の伝播についていろいろ考えていて。

神能についての言及はさらっと読んだ感じないんですが、その本を読む限りでは、松江に能楽が定着するより神能の成立のほうが早そう。
神能は慶長年間という記録が残っているから、故意に盛っていない限り事実。
一方、松平の初代藩主直政は、慶長生まれで松江に来たのはもっともっと後。ということは、神能のほうが早い。
昔の神社と藩の関係とかよくわからんけど。

ふむ。
ここは多分動かせないだろうなあ。

ただ気を付けてみるべきは伝播のほうですね。

松江に能楽があったということは、それよりも前に各地域でも能楽が一種ステータスとして各藩に持ち込まれていたということでもあり、石見、浜田藩・津和野藩にもなかったとはいえないということ。
「ない」という記録があればあれだけど、そもそもの記録がない気がする。
ただ、乏しい山城の印象からして、浜田あたりは毛利の流れ?なのかな??なんとなくイメージ的にあそこらへん好みそうだから、あったんじゃないかなーとか思うんですよねえ。戦国から江戸までの歴史とかと勉強せんといけんかしら…


とにかく、ということは、いわゆる採物神楽、かつて出雲流神楽と呼ばれたひとつの大きな特徴ある神楽は、一番古い記録が現段階で見られるのは佐陀神能かもしれないけど、圧倒的な力で他の地域の神楽に影響を与えた、と断言はできないんじゃないかな。
その伝わり方の道筋もよくわからないし、それぞれの地域ですでに能楽という存在が、身体とか所作とかがあった
ポテンシャル?というか。

で、特に石見は、隣っちゃあ隣だし、それこそ影響受けてないはずがないんですけれど、あんまり想像つかない。
ほかに、出雲-石見で関係性を見られるものとかあればいいんですけど、それも思い当たらなくて。
なにかあるかしら。
ふむむ


眠いのでこのくらいで。

難しいなあ。