舞ひあそぶ

神楽のこととか、備忘録の掃き溜め。

講習会とかぐら そのに

気になったのは戦中後の石見における神楽。
戦中は奢侈禁止令みたいなやつと、担い手がおらんだったからダメだったけれども、明治維新のときと違って戦後舞が禁止されることはなかったようだとのこと。

このまえ会社で、会議のとき流れで、何でいっときは「浜田県」になるような土地、中央の人間の目があった土地だったの?って質問したときに、あそこが「前線」だったからじゃないの、っていわれたのです。
講師の方の言葉を借りれば、宗教改革の流れ、時代の流れの最前線。

かつ、最前線だったからこそ、多くのものが失われた。資料的なものも含めて。

会社での話がここでなんとなく自分のなかで改めて腑に落ちた。

そして、戦後、今度は広島が前線となった。
だから、いわゆる新舞が生まれたんでしょう。


うーんと、ただ、やっぱり石見における神楽とは、明確に、男の芸能だったんだろうなあと。

というのも、神楽に限定したらどれだけあるかよくわからんけれども、全国的には、今残っている芸能のなかで、戦中「戦勝祈願」という名目で、続けたというものも、わりとある、はず。たしか見かけた記憶がある。

いま例がでないのがもどかしい。

郡上おどりなんかもそうじゃなかったっけ?
あれは女性も踊るからだけど、盆踊りなんかは、供養としていよいよますます踊られたんだったじゃないかしら。
神楽でも、出征できない男子とか、老人とかが担ったような話を聞いたような、聞いてないような。
もどかしい。たった3年でこんなに馬鹿になる。これからもっと馬鹿になっていくんだなあ。


あ、「舞子らぁー」という呼び方→「舞子連中」という団体名っていうのがやけに自分的には面白かったな。言われてみればそのまんま。思いもよらなかった。


まあそれはいいとして。
「神事」プラス「芸能・娯楽」で成り立っていた祭りから、「神事」をとられたら、確かに生きていくためには「芸能・娯楽」としての道しかない。
前線となった土地は、なおさらに。
それでも、「芸能・娯楽」のなかに、きちんと神ごとを残した。隠した。少なくとも私はそう確信している。

邑智郡は山のなか、にくわえてそもそも式年祭が毎年の催行じゃなかったから残ったというのも、ああ確かにと。

4,50年?前は浜田市街でも神がかりしない大元祭があったとおっしゃるけど、今はないのかな?昔は、は聞くけどそういえば今は、って聞いた記憶ないかも。
どうなんかな。いたしいのかな。

師匠の小さい頃もあったと聞いたような聞いてないような。


衣装は、四国のアレ取り入れる前は、歌舞伎の衣装をもとにして、っていわれてたけど、うーんと、多分歌舞伎というか、広義に芝居、踊り、なんじゃないかなーとかも思いましたですよ。

踊りの名手が長浜におられたということは、もとよりそういう文化的土壌があったのだろうし。

それもきっと、交易なんかが関係するのでしょう。


あとは。
公演は増えたが祭りは減った。
必要とされなくなれば衰退する。

ちょうど能の番組を見たので、コピーの話とかもいろいろ自分のなかでルービックキューブみたいにカタカタはまったんだけど、それはまた今度にする。


いずれにせよ、お話を聞いていて、自らがこの土地に身を置いて、仕事や神楽で縦横無尽に出かけて、思うのは。

この地域、石見においては、神楽が衰退しているわけではない。神楽ではなく地域が衰退している。
そしてそれは、東は他人事ではない。笑うな。
地域だけでなく神楽も衰退しているからむしろ悪い。

石見は、神楽が衰退していない。
それは、本当に、宝。至宝。

これを力強く守れるスーパーマンはいない。

一人一人がバットマンかな。
特殊能力はないけど、努力と、鍛練と、わりと手弁当。弱いから強い。




羯鼓
手をポッてするとこ(ボキャ貧)と胴の音が合うのが好き。
なんていうかね、ほんとボキャ貧なんですけどね、神禰宜は一生懸命気難し王子の声と羯鼓の音を聴いているんじゃないかなと思うのですが、なんかふと、あ。胴とりもまた一緒に聴いてるんだな、って思ったのです。

一緒に耳を澄ませてる。

聴けない人は、多分合わないと思う。

多分ね。なんとなくね。


胴だけじゃなくて、みんなが一緒に聴いてる。
ちょうどいい感じ。気持ちいい。

あと、ちょうどいいところに据えられたときのやったあああって感じがすごい、こっちも嬉しくなる。本当にやったあああってしているのかは知らんが。


舞うために生まれてきたと言わしめる安定のクオリティと将来に期待組のうち2人の舞ではありましたけれども。
羯鼓」は、兄弟子さんの舞を見たいなあと思いました。一回くらいは見ているんじゃないかと思うけど…それが生か映像かもわからない。見たいなあ。

話に聞く、兄弟子さんの「羯鼓」。


「切目」は更にレア。
あれも囃子が合っててなんか気持ち良かったー。なにあの快感。
好きだなあ、「切目」。

あ、あと「切目」も若干踊りからとったのかな?って思われる所作があるんですね。「羯鼓」ばかりに気をとられていましたが。

禰宜はどこかチャーミングに、一生懸命王子のお気に召す場所に羯鼓を据えようと奮闘するけど、あとから出てくる介添はなんかツンとしていて、そのテンションの対比も面白い。

広島県境も、そうよね。女だけど。なんだかそれまでと空気感とか、テンションが変わる。
神が現れたぞ、って感じ。

王子は多分本当に気難し屋だけど、きっと神禰宜のキャラはイラつきながら嫌いじゃないと思う。律儀にそこじゃない!っていうくらいなんだし。


でもなぜ、この演目を、演目にしようとしたのか。
神楽歌での重要な神の勧請というのは、そういえばこの地域ってあんまり無さそうだから、人格化する必要があったのだろうか。
でも、なんでそこまでしてこの神を呼びたかったのか。祭りに組み込みたかったのか。
偉業を讃える訳でもない。武勇神でもないし。

ただ問答をし、羯鼓を激しく打ち鳴らす。
いくらてんてんどうどう鳴らすったって勢いよすぎやろ。

それで、切目は若王子?だから、本当にちょうどよい。あの勢い、激しさ、エネルギー。
禰宜は、実は静。
王子は、動。
それであの2人だと、なんだかしっくりくる。


続きだったらあの2人だけど、「羯鼓」だけだったら兄弟子さんの見てみたいなー。



まあ、頑張って行って良かったです。

講習会とかぐら そのいち

講習会は、安定のお二人が講師でした。

長浜面のセンセーのお話を聞いていて、やっぱり、きちんと学ぶなら石見焼のほう、作陶の歴史の方まで掘り起こさんといけんなあと改めて実感。
そこでの繁栄が、長浜人形、そして長浜面に繋がるんだなあって。1300年代ってことは、神楽の草創期にも繋がりそうよね。
あと、これはまだわからんけど、大麻山あたりも注意深く見ないといけない。これはめも。

あと、長浜人形師が面を作っていた時代から芸北・山口のほうからも面を求めに来たとのこと。
多分お若い頃は、まだ長浜人形師もおられたんじゃないかと思うけど…でも、ともあれ、気風とか交易の動きとかも見えるね。

ずうっと前から伺っていることもたくさんであったけれど、今だからこそ「長浜面」であることを強調しなければという思いとか、もう自分は意識していてもついていけない部分が出てきたとか、今まで聞き逃してきたのか、そもそもなかったのか、そういう思いや言葉が刺さって、なんだか年を重ねることの切なさも感じてしまった。

私は、おっしゃっていることの意味について多少なりわかる気でいるけれども、しかしながら、やっぱりその土地で、時代の流れに身を浸し、人と相対しているからこその思いとか、感じておられることは、こちらの想像を遥かに超えているんだろうなあとも思うのです。

聞きなれた中に、新鮮さがいつでもいる。
それが「口伝」でもあるのだと思う。
だから、本当は、何度だって同じことを聞いていたいと思う。億劫なときもそりゃあるけれども。それでも。耳を引っ張ってでも聞かせてほしい。本当は。

あとは、飾り面の需要が減っている話とか。難しい。
私も飾り面は買えないのでかわりにカレンダーの鍾馗を額にいれて飾っている。ううーむ。むむむむむ
いい風習、文化だと思うんだけども。
難しいね。

よく言っておられることだけど、行きすぎると頭叩かれる。行かなすぎると衰退する。という言葉を、聞くたびにもごもごと咀嚼する。

分かっていて行きすぎるのか。分かっていて行かなすぎるのか。分かっていないのか。


長くなったので分けることにした。まずいったんおわり。

ことばについて

ところでこの前子ども用の新聞見ていてほほうと思ったのですけれど、銀山坑内で、下働きというか、ざっくりいえば若いパシリを「手子テゴ」と呼んでいたらしい。

てごしてくれえの「てご」って、これから来てるのかしらとか、妄想。

ほかにもいろいろ考えてたけど、眠くて忘れた。


調べたら、「手子テコ」は女の人のことも指すらしくて、田子の浦のタゴはこのテコから来てるらしい?斜め読みだからちょっと不正確かもだけど。
あと、横浜に手子神社ってあって、なんかいわれもいろいろあるらしいけど、オオヤマツミが祭神なのが興味深い。

出雲だけが特別なんじゃないのよねえ。変わり種ではあるけど、完全なる独立言語ではないということは、住んでから気がついたこと。思っていたより石見との共通項というか、重なる領域がある。

方言って面白いなあ~

やっぱりなんか憧れ。
わたしも出雲と石見のバイリンガルを目指したいけど、もはやカオス。会社の人たちが解説なしでゴリゴリに出雲弁なので、若干そっち強めかも。
今日お客さんが、ねんたがさばったをナチュラルにいってて驚いちゃった。

石見、浜田弁は単語がまだよくわからないときがあるのと、なんか聞き取れない時もある。


神楽歌は、その点、チャリを除いてほぼ方言的表現は削いでいる?
口伝での継承の難しさは、これ。発音とか、影響受けるから。崩れというのは、そういう要因もある気がする。
大和言葉というか、方言とは別の言語表記だからこそ、他の地域との比較もできるし、共通項とかも見られる。

それは夷か恵美須か

二宮、多鳩さんのおはなし。

敬川から有福の下を通って、飽きたので9号に合流しようとしていたら看板を見つけたので寄ってみたのでした。

人んちの横の細道から山を上ったら、あるかんじというか。
大麻山みたいにてっぺんにあるわけでもない。昔はてっぺんだったらしいですけれど。
なんだろ、例えにくいなあ。お宮周辺の雰囲気は、宮尾山とか松尾山系。威厳があるけど、なんかどこか怖くもある。異空間なかんじはすごい。木々が圧迫してくるというか。
でも、お宮の真上は木がないから、そこだけ柔らかい光がキラキラと射し込んでいて、優しいのか怖いのかわかんない。

あーーーよく考えたら、山のお宮って結構そういう風に感じるとこが多いかもです。

そんでもって、ものすごく沢が主張していた。
山からにじみ出た水なんだろうな。絶対ブヨいるやろって確信するレベルのきれいさ。水量も結構あったんじゃないでしょうか。とにかくブヨ怖すぎてゆっくり観察できず。
しかも石畳の間にめっちゃサワガニいた。めっちゃサワガニ。
湿度高めだからか、すごくスベる苔が、石畳全体に蒸していて、そう頻繁に来訪者もないのかな、と思ったりして。


でもさすが二宮、かなり大きい。
お宮の作りはちょっと独特で、大社造りといえばそうなのですけど、奥に向かって長い。配置も変わってるかなあ。鉤型。
入りは随神門。
あと、多分昔はセットだったんだろうなってお寺が横にありましたね。
ほんとにブヨ怖すぎて、長居できなかったのですわ。頭の回り五月蝿なす神々が飛び回っておりましてね。

あ、あと拝殿の奥?に獅子頭がおられました。
多分、ベンガラ色?赤くはなかった。
ああやって見えるところにおられるのは、石見でははじめて見たかも。


ほいで、多鳩さんは、事代主なのだそうで、由縁は、石見開拓の祖、あそこが終焉の地だとの事。まあ、一書曰く、ですけど。
しかも国譲り神話なんて知るか!ってかんじだけど、それでもお上に認められたお宮ということで、興味深いですね。うむ、その強引さ、嫌いじゃないぞ。

出雲と石見の、古い時代の関わり合いを示唆しているのかもしれないし、わざわざ「北西に面し」と書いてあるのも興味深い。日本海に向いてるんだって。
それでその神威は「しばしば航海中の船舶を停止せしめ」たとあるので、なんちゅーか、やっぱり前にも書いたけどそら恐ろしい神な気もしたりして。

あと、そういう点においては、「恵美須」ワッショイなのもひとつ合点してもいいかも。


摂社?わきには、大元、高神?、住吉、八幡、若宮、稲成。
高神って、タカオカミかな?土地的に。

石見らしい構成ではある。けれど、若宮は珍しいかも。興味深い。心に留め置く必要があります。

あ、あと、水の出るところというよりその淵?みたいなとこに、藁蛇なのかは自信ないけれど、ずっと昔からそれにだけ注連縄の房みたいなのがついた縄が巻き付いている木がありました。シデ?じゃなくて、房みたいな方。


ふうううん。なんか、不思議。

それでもって、家はあるんだけど、微妙に集落とも離れている気がするし、「神主」という地名をもつ土地ともちょっと離れてる気がするのよねー。
もともとの神域がそれだけ広大だったのか…なんなのか。


石見国三社というのが、
ウマシマジ(物部氏祖神)プラス天地開闢の神勢
あ、最初はナガスネヒコの下にいたのね。そいでこれも終焉の地。

コトシロヌシ(国つ神)プラス、ベタな皆様

アメノイワトワケ(天つ神)プラス、タケミナカタ(国つ神)

というのも、なんでなのかなーと思ったりして。
どうしてその面々だったのでしょう。

ふーむ。勉強不足。

ちょっと、ひとりでいくと落ち着かないかんじなのだけれど…万全の虫対策をして、もう一度いくべきか…ふむむむむ

ちょんぼしの五神考

五神のめも。
兄たち四神は「神迎」の道行き。左回り。
春青が起点。一番神座に近いところ。

「神迎」の道行きで舞庭を調えることで、埴安を迎えるってこと?

よく考えたら名を名乗れーのくだりは、いわば問答よね。でもあれは予祝とか呪的な意味合いではない。勝ち負けないから。
あくまでもあのくだりは、世の理を説くためにあるというか。
仏教的な理と、儒教道教陰陽道(宿曜道?)の理、日本という国を鎮護するために取り込まれてきた理。

いろいろ調べていて、この「五神」の思想やらやらは神楽の芯にあたるものだと考えられるのです。この演目だけで本書けそう。誰か書いて。

でも本当は、明治政府的にはあれはあーんまり好ましくない演目だと思うけどなあ。だから、五龍王という名前を捨てたようにも思う。
まあクニトコタチだからセーフっちゃセーフか。


埴安の道行きがなにベースなのかわからない。
神迎→???→鬼囃子?→???舞い上げ???
鬼囃子?と舞い上げは演目によってそうそう変わるとかはないのかなあ。

仮定というか、ある規則性にのっとれば、
地固め→神迎(神降ろし)→言葉出てこないけど饗宴的なの→神上げ、の流れがあるはずなのよね。
起承転結的な。

多分、祭りの大枠の進行だけじゃなくて、演目でもこれにのっとってるのが多いと思うんだけれども。


あと師匠に指摘されて改めて気づいたことですが、
なんとなく、普段の感覚的に、方角における四方・四神で捉えていたのです。北起点というか。北が決まって他の位置が決まる感覚。でも神楽とその周辺世界では、東方青龍が起点になって考えないといけませんでしたね。

ううううーむ混乱してきた。勉強不足。とりあえず寝よ。

ホルマリン漬け

私は、神楽の話をするとき、神楽は時代の変化に合わせて形を変えながら生きてきたというけれど、では、「古式を残した」ものはどうなんだろうかと改めて自問してみた。

今ひとまずの解としては、それもまた一つの時代に則した「変化」ではないかなというところ。

ある日誰かがふと立ち止まって、振り返る時のために残さなければいけない時代、あるいは「古き良き姿」「昔ながらの姿」に絶対的価値を見出だす時代でもあって、そういった時代の要請に応えて、時間を止めた。
そもそも時間を止めてしまえるような、「古式」を謳えるようなところというのが少ないので、余計に価値とされる。

そういう存在はもちろん必要。
しかしながら、とも思う部分もあるけど、必要な存在であることには間違いない。
そういう時代でもある。


しかしながら、我々が気を付けて耳を傾けるべきなのは、ほんとうに、根っこから枝葉まで一度も途切れることなく、ほんっとうに古式をそのまま正しく継いでいるところなんて、無きに等しいので、正統なとか源流だとかそういった言葉は穏やかにしかし注意深く捉えなければならない。

全国等しくそういえる。

少なくとも、明治初期。大多数はまずここで一旦途切れる。長短の差はあっても分断される。
そして、昭和の戦中後、高度経済成長期。
みんながみんな等しく時代の余波を食らっている。

必要があって復活したものが多いと思うけど、求められなくて消えたものでも話題作りのためだけに復活することもある。



今残っているものたちは、担い手を変えた。あるいは芸態様相を変えた、それは踊りだろうが舞だろうが歌だろうがとにかくイチャモンつけられたもんは変えた。まず明治初期は大方これ。
残りは中央の目が届かない辺境の地であったか、一番入り口に近いところだけ、ようはパッと見だけ迎合したように見せかけて他は残した。残すために誰かが犠牲になって変わった。

八調子が生まれた背景、大元祭りを捨てた背景も、ただの海の民と山の民の嗜好の違いとか、娯楽を求めたとかそれ以前にこの時代と、浜田の土地柄があるんだと思ってる。少なくとも、私は。
浜田が変わらなかったら、六調子も守れなかったかもしれない。みんな共倒れしていたかもしれない。


昭和は以下省略、だけれど、掟すら変えざるを得なかったところもある。

担い手がいなければ継げない。
受け手もいなければ継げない。

ただでさえ、ナマモノ。


一人の人間なんて、ほんのわずかな時間しか神楽やそういったものたちに関わっていないのに、その前後ほんのわずかな時間しか見つめられないのに、どうして、確信をもって変わらないだとか正統なとか源流だとか言えましょうか。

化石じゃないつもりなら、なおさらに。

東の亀さんの娘さんは、それを「ホルマリン漬け」と呼んでいた。ふと思い出した。

もちろん、その言葉を気概を誇りとして、全てとしている人もおられる。叩いたらこっちが怪我をするのでそこは穏やかに微笑みながら、でも自分の眼で冷静に見つめなければいけない。


それでも人は、遺すんだよな。

がおおおお

取引先へお使いごとへ。
いつも話し込んでしまうけど、たまたま探し物についていって書架を覗き込んだら、伊勢大神楽の本を見つけちゃった。
いいなあいいなあ言っていたら貸してもらえました。わあい。ラッキー。

たしか麒麟獅子の研究をしている人だよなあとおもったら、やっぱりそうでした。
もう亡くなられてしまっているらしい。そうか。残念。


まず面白いのが、獅子舞の英訳が
Sacred Lion Dance という。

名詞の修飾だから意味合い的にも…神聖な、神の使いの…あたり?
単純に読めば、聖なるライオンの踊り。……オオゥ…
唐獅子はどっちかといえば狛犬と同系統なんだろうけど、がおおおの方になるのか。

堅実に判断すると15,16世紀成立と見るのがいいようですが、桑名ね。桑名。なんだろう、なんか聞き覚えがある場所だなあ。
そこに残っている獅子頭とか見ると、やっぱり岩手のプリチー権現様の獅子頭も、大神楽のそれを模しているのがわかります。チリチリ頭みたいな。九字なのかな?白い紙で作ったモジャアとしたタテガミ?がくっついてる。

社風神楽だったかな。頭からかぶる権現様がいくらかありましたが、あれは完全大神楽の色がありますね。
多いのは腕と手で扱う、小ぶりな権現様。
それでもって、鹿踊りに顔が近い。
たしか、あのふたつは兄弟みたいなもんという本を読んだぞ。

ということは、素直に大神楽を参考にした頭と、なんかなぜだかトランスフォームして獅子と鹿に分かれた頭があるんだな。ふむふむ。なんでだ?

あ、社風神楽は神職がほかよりもうワンステップ担い手として関わっていたところだから、そうなると神職が伊勢系だったという仮定も立てられるかもですね。
頭、あるいはそれに必要な材料や技術が伊勢で整えられた可能性も考えられる。対して、現地で生まれたのがもう一方の獅子、そこから分かれて鹿、とか?

ふーむ。

すんごく雑にメモすると、大神楽の発生地点では、伊勢のお札を持ってる系の集団と、回り神楽を持ってる系の集団が、じゃあお互いに持ってるものを分けあいましょうねって、お札を持ってる系の集団が回り神楽を習って東日本へ、回り神楽を持ってる系の集団がお札をもらって西日本へと行脚したらしい。
なんという。スゴいな。
どっちかが、こりゃうちのだからって占有していたら、今のような獅子舞の超広範囲な伝播はなし得なかったわけですね。スゴいな。

そしてこの人たちの特筆すべきは、その芸態に影響受けた獅子神楽は生まれたにせよ、大神楽そのものは自分達が担い続けて、現代におけるまで回り続けているということでしょう。
その土地のもとある文化を駆逐するのではなく、お役目を果たして去っていく。そしてまた来年やってくる、みたいな在り方。
まあこれについてはもう少し読み進めないと本当にそういう見解でいいのかわからんですが。今のところの印象として。


ただ、ご多分に漏れず明治4,5年は政府から禁止の通達があったよう。
村を渡り歩いて神楽奏して見返りもらうなんてけしからんとか、お札を配って歩いてけしからんとか?そんな感じかな?

なるほどねえ。

そう思うと政府は政府で結構それぞれの地域の神楽の特色について把握した上でテキメンの禁止令を通達してる感もありますな。

マジで新政府のおかげであらゆる文化が大打撃だ。


そうそう、あとこの人の文を読んでいて、普通神楽とはカムクラから派生したもので、その字は「神を楽しませる」ための供物として、という論調がポピュラーだと思いますが、「神がたち現れるときの楽」というニュアンスでは、みたいなことを書いておられてホホゥと。結構その論好きかも。
誰が楽しむか、というより、その楽によって神が現れる様子を表したりとか、が確かにしっくりくるような。
楽しむ楽しまないはまたそのあとみたいな。

なるほどねー。


急に眠くなってきた。
また明日読んでみましょうかね。