舞ひあそぶ

神楽のこととか、備忘録の掃き溜め。

調べたいめも

これから、今一度基本に戻って勉強しないとと思っていること。


ひとつ、
能楽は江戸まで、猿楽と呼ばれるわけですが、申楽とも書くのね。諸説ありとはいえ、世阿弥はこれをもとは「神楽」だったんだけどネ(しめすへん)をとったもの、という風に、解説しているらしい。
伝統芸能と呼ばれるもののなかで神楽がもっとも古い芸能といわれるわけですが、能はそこから派生したもの、とも言えるのかもですね。

世阿弥周辺もきちんと勉強しないとですね。

ふたつ、
能の変遷と地域との関わり・分布について調べたいですね。
その上で、神楽への影響とは?


みっつ、神楽の出雲→石見への伝播説について。
いままでちまちま築いてきた感覚では、結構疑問なところもあって、その定説が否定できそうな、証拠ってあるんかなあと思って。

よっつ、中国地方の神楽について。
ここのところずうっと、カメラでいえば、ズームしてピンで撮ってるような感じ。ちょっと後ろ下がって広角にして、もっと大きな枠で見てみたいな。
自分のなかでは、五神に関係する思想がキーのひとつだと思っていて、その辺を軸に据えてちょっと見回してみたい。これは、じーっくり。

しんのうもろもろ に

まず、しんのうの演目のおさらい
演目は「大社」「真切女」「恵比須」「八幡」「日本武」「磐戸」「三韓」「住吉」「荒神」「厳島」「武甕槌」「八重垣」の12こ。


みみくさんは、七座や能舞で差異がある。
特徴的なのは「五行」「山の神」「三つ熊」など。

「五行」はまんま「五神」
「三つ熊」はタケミカヅチとフツヌシが○○鬼という名前の見た目は賊?を退治する話、だったかな。面の耳の部分に八雲の雲とか装飾ついて、おでこに「武」と「經(経)」がそれぞれついてる。
「山の神」は大王さんが頭のなかに浮かんできて思い出せんけど、石見とかと共通性のある演目だった気がする。…と思ったけど、「香具山」の方でしたね。岩戸のはかりごと巡らして、榊を取りに行くやつ。


興味深かったのは、五郎の四神が、大陸の武神みたいな面だったこと。あれ…奈良とかで十二神将像とかでありそうな感じ。「三つ熊」の面同様おでこに木火金水のマークが入っていて非常に分かりやすい。名札的な。
たいして五郎さんは全然違う顔。髪が富士額な感じに書いてあって、中性的ながら目と眉が吊り上がって歯を剥いていて厳めしく、口角の辺りから顎が割れている。

賊面とも神面ともまったく違う。
多分、埴安大王のためだけの面、なんじゃあないでしょうか。

でも実は「中性的」というのはキーワードなのね。
これ話始めると長いんよね。またそのうち。それとも前に書いたっけな?

あ、あと所務分けのじいも出てくる。というか、思兼神。
ほぼ石見の「五神」のストーリーラインね。
そういえば邑智郡の神楽で「五神」って見たことないなあ。


そのほか、ほほうとおもったこととかをつらつら挙げていきますが、

まず、「切目」は出雲地域にほぼ伝わっている演目らしいですが、詳細わからんけど、切目王子は明治中頃以降かな?「女」らしい。
姫面で出てきて一通り舞って、翁面着けた神が出てきてかつ鼓を姫から渡されて打つ、という構成かな?
能っぽい感じ、というのでだいたいイメージはつくけど、しかしよくわからん。
なんで姫面?
神功皇后と同じ面なので、姫面とはいっても、目力ある系の美人さん。烈女?

そもそもは男神として伝わっていたっぽいものを、なんでわざわざ女神にしたのか、がわからんのでわからんのですが、邑智郡の「切目」で本人は男神だけど問答に女が出るのはそこいらとの関連もあるのかなあとか思ったりして。

あ、隠岐の「切部」もやっぱり切目王子の舞らしいですね。
ああー隠岐もちゃんとみたいなー


あと、「田村」では、田村さんちの麻呂が鈴鹿山の鬼退治する話っぽい。チャリの里人が出る。人気演目。

頼政」の里人みたいな、嘯の面がちらほら。あと猿面も見た。


いまは廃れたけど?少なくとも明治期頃まで、「天神」「八幡(弓八幡)」「黒塚/安達ヶ原」に相当する、演目はあったみたい。狐面とかも。

面はいろいろ使い回しながら。


とか見ていると、出雲は出雲、石見は石見、で違いがあるのは当然なんですが、もっと大きく、中国地方は荒神神楽的な枠でみることができます。
備中とか石見とかとも共通項を見いだせるんですよね。ご本人らあは嫌かもですけど。

ほいで、これ系の演目って、廃れることはあっても、わざわざ新しく作るとも考えられんので、ずうっと前から、神職の神楽執行時には定着していたということ。

つまり、さださんが、"能舞を創ってそれが伝播"したのではなくて、むしろ、土俗的なというか、そういうものは捨ててしまって、いろんなお宮の神威を高めるための創作・演目整理をしたという可能性のほうが大いにあるわけです。
源流が指すのは、"創作"というより、執行の流れの"整理"というイメージかもですね。

神職演舞禁止令とかの理由で、休眠もされたことがあるので、そこでもしかしたらまた演目が減ったというのもあるかもですね。12こでも、やってるの?って言う名前もあるし


だから"源流"という言葉はいろいろ難しいなあとおもいます。


みんなちょっとずつ、その土地にあわせてカスタムされてるだけで、本質で大きく違うことってあんまりないんだから、あっちが偉いこっちが偉いという不毛な戦いは嫌です。

神能あたりもろもろ いち

佐陀神能について、写真集などでの概要をざっくりまとめると、
16世紀末から17世紀初頭、うんと、神楽を舞う役職の人っぽいんですけど、その当時の弊主祝へいぬしのはふりさんが、神職の裁許状をもらいに都へのぼり、猿楽能の所作を学んで帰った、という記録が残っている、とのこと。
島根、秋鹿、楯縫、意宇郡西部の神主と巫女によって執り行われていたものの、神職演舞禁止令により、氏子の手へとわたった。
9月の御座替祭で、取り替えをするその晩に「七座」の神事を奉納。翌日の夜、例祭の夜に「式三番」「神能」を奉納。

「神能」は、江戸時代初頭、だから17世紀の早いところですね、に大成し、当時、猿楽大夫がいたという記録もあるとのこと。

「七座」「式三番」「神能」の"形式"が、多くの里神楽に影響を与えたとされる。ということなので、この"形式"を今でも変えずに伝えていることから、国の文化財ユネスコ登録となった、という解釈でしょうか。

「七座」の神事とは、「剣舞」「散供」「清目」「御座」「勧請」「八乙女」「手草」の7つ。「八乙女」は今はないということですが、多分これのために、巫女も舞手を担っていたということなのでしょう。江戸時代にはこれプラス「祝詞」。神職から氏子へ代わる過程で、なくなったということ。

多分ですけど、石見でいえば「四剣」「塩祓」「茣蓙舞」「神迎」「四神」「榊舞」辺りが対応するのではないでしょうか。
東の亀さんでやる「悪切り」とかもこれ系なんじゃないかなあ。
益田のほうで見た「剣舞」だっけ?口に加えて両手で持ってクルクル回るやつは、なんかちょっと舞ぶりというか、毛色がちょっと違うのでよくわからないけど、存在意義的には同じなのだと思います。

※師匠より、さださんは「剣舞」で剣を持って舞うけど、それは出雲山間部では「八ツ花」とのこと。ちょっとまた「剣舞」については考察の余地あり。


「式三番」は例祭の夜の奉納。「翁」「千歳」「三番叟」
いまの能で見るのと同様、ストーリーなどはなく、めでたい詞がいっぱいならんだ口上をもつもの。
天蓋やなげし飾りはつけない。

「神能」は、筋立てや囃子の構成が能の形式。そしてそれが、出雲地方独特のものといえる、とのこと。
あにゃ、写真集では「出雲流神楽の源流」ではなく「出雲神楽の源流」ってなってますね。
演目は「大社」「真切女」「恵比須」「八幡」「日本武」「磐戸」「三韓」「住吉」「荒神」「厳島」「武甕槌」「八重垣」の12こ。そのうち3,4演目を奉納。
いままでの感覚的なものや、写真集での内容から見るに、ベーシックなのは「大社」「日本武」「八重垣」。東の亀さんで「三韓」やるから、それもあるのかなあ。


ふうー。

まず、また今度調べんといけんのは、この大成に猿楽大夫の存在あり、というようなのだけれど、実は松江藩の文化としてもともと能というのがある、っぽいのよね。町民文化のほうだったか、忘れたけど。
本買ってあるのでまた時間つくって読まんと。
もともと、土壌として、能が根付いていた可能性はある。


ほいで、歴博の展示とも絡めていきますが。
あ、みみくさんは、立久恵を越えて三刀屋掛合と接しているあたり。地理難しいー

いまさださんでなくて、みみくさんにある「祝詞」は写真見る感じ、「天蓋」ぽい。
クモを上下させているところのそばで、祝詞を読み上げて神を勧請します。
あ、いま胴取りが勧請みたいなのするから、それが誰がそれをやるかが変わったみたいなかんじでしょうか。

ねむい。

でも、いまではその勧請のためでもあった天蓋がないというのも、かなりスパッと転換したのでしょうか。

あーーこれ一回じゃ無理だ
眠くなってきたし、一度ここでおわり、

                         

れきはくの展示

歴博の展示をみてのまず触り。

一通り、フムフムしながら見てまわって、最終的にふと気がついたのが、佐陀神能が、今でいう採り物神楽、演劇性のあるストーリーと構成を伴う能舞をもつ出雲流神楽の「源流」とは、やっぱり言えんのんじゃないかなあ、ということ。
中国地方広い目で見たときに、逆に神能が異質に見えるような気がするのです。

たしかに、あれでもなんでも「源流」、先祖と定めてしまえば、いろいろ判断基準として便利なのですけど、あれに当てはまらないというか、うん?というのが、出雲(この場合佐太は松江なので松江)周辺の神楽だけをとってもあまりに多すぎるのではないでしょうか。

式三番とかそういう感じのハード面を整えて、ありゃそれ便利ね、確かに都でもやってるしね、みたいな感じで周りが取り入れていったことはあると思いますが。
演目という面から見れば、ある意図を働かせて、それまでもっていた演目を改編するだけではなく、捨てた可能性もある。

という風な視点もあると考えられるような展示でしたね。


その辺の話をもうちっと掘り下げたい。

あと、ビジュアル的に全国共通認識のある「鬼」の不在とか。こっちは書くの難しいかなあ。



やっぱりもうちっと岡山のへんの神楽も、勉強してみないとなんとも言えんのですが。

師匠のことば。

師匠から書き残してほしいといわれたこと。
必要だと思うから、いわれた言葉をそのまま。
時々このタイトルでいわれたことそのまま載せてもいいかな。肉声みたいな。それも大事な気がしてきた。


ずっと、思い考えていたことに、結論がでました。
ずっと思っていたことを伝える文言です。

神楽の舞手を考えるとき、昨今は器用な人物に出会うことが多くなったし、実際に沢山増えてきました。
反面、『舞』の上手い者に出会うことは少なくなりました。社中は違えど、先輩の中には多くいます。



この話をされる前の日とかに、たまたま、お父さんと車中で、直接習いもせず、動画見て真似できるその能力はスゴい、という話をしていたこともあり、私は、神楽が身のうちにない者だけれど、すごくすんなり呑み込める言葉だったのでした。
でも、神楽に限らず、なんとなく、世の中が、そうなっているような気がして。

帰省の飛行機を空港で待っている時に、実に十年ぶりくらいにお笑いの番組を見て、そのときもなんとなく、感じたこと。
人真似がベースにあるネタが、なんと多いことかと。
昔から物真似はあったけどさ。
器用ではある。
でも、それって、もとの人が過去の人になったら、一緒に過去のものになる。残らない。

本質的に人を笑わせている訳ではないと思うの。

真似が似ているからとか、ちょっとの侮蔑とか、器用さに対する笑い。


興味ないからわからんですけどね。
あらゆる事象について当てはまる事柄だと、個人的には思うのです。


もとのものが、ニセモノであれば、時代と共に消えていく。ホンモノであれば、ホンモノは後世に残る。でもそのオマージュ作品は?どうなんだろう、と思うのです。
器用に真似るほど、ねえ。


器用さも能力ではあります。

でも、器用という能力に甘んじて、思考し続けること、探求すること、極めようという思いが蔑ろになるのであれば、あの人は器用だね、で終わるのではないでしょうか。
いつかは飽きられる。
いつか、人の記憶から消えていく。


不器用でもいいと思うのね。
貪欲に、思考し、探究して、追い求めるからこそ得られるものがあるから。
そこからたち現れるものが、人の心を真に動かすと思うから。


ここまできて、ああ、前に師匠がいっていた舞を磨くこと、基本を磨くことに繋がっていくのかあ、とひとり納得。
萬斎さんの例のやつね。
http://namaaa.hatenablog.com/entry/2017/10/30/222759
これこれ。自分の回顧用にはっつけとこ。


基本を求めて求めて極めようとして、己の身体に染み渡って、型が型でありながら、その人そのものを写し出す。
「人」が映し出される。

逆をいえば、映し出されてしまうから、己が見せんとする役柄、人について、また思考して探究しないといけない。
達成の見えない、しんどいの連続かもしれません。
謙虚でおらざるを得ない。達成がないから。

でも、だから、見る人の心を動かすのは、たしかなのです。

真の舞いあそびって、きっとそう。


器用者を育てたいわけではない、とは、師匠でなくとも、古老や、先輩が思うことだと、私自身としては思うのです。そう思っていてほしいという願いにも似た思いだけれど。


器用な舞は、箸休め程度にしかならんのんよ。
記憶に残らんのんよ。
はあ今日はいい神楽を見たなあ、にならんのんよ。

届くかなあ。

ギシとマア

師匠に神楽に出てくる兄貴分、弟分の表現についてなるほど!となったことがあるので、メモなど。

なんで同じ兄弟なのに、「日本武尊」は兄ぎし弟ぎし、「八十神」では兄まあ弟まあなのかなあーと思っていまして。

推察だけれど、という前置きがあって、蝦夷が転訛してエギシと呼ばれ、エギシ、オトギシになったのでは、と。
エミシ→エビス→エビシ→エギシみたいな?
私にはまだこっちの地域での転訛の法則とかわからんので、こっちで生きている師匠がそうっていえば、ほほうそうかあとなるんですが。
出雲の方も、イとウの音が非常に曖昧なので、全くあり得ないとは言えないんじゃないかなあとか思ったりして。

駿河の地も都からみれば東国、蝦夷の地。
エギシへの転訛があったなら、兄エギシ、弟エギシから口伝の過程でエが吸収されたのかなーってかんじ。


たいして「八十神」。
いわれたのは、口上のなかに「継兄(ままあに)弟(おとと)なり」とあり、それが訛って兄まあ、弟まあとなったと推察しています、と。

ままあに(古語ではまませとも)のママとアニの順番がどこで入れ違ったのかは皆目見当つかずですが、全く不自然なこじつけでもないのではないでしょうか。

ただ、もし、この仮定がまるっきりの大嘘でなければ、「ギシ」も「マア」もある立場を表す記号ということなので、「日本武尊」において、兄まあ弟まあはなり得ない。ヤマトタケルの継兄弟ではないから。同じように「八十神」で兄ぎし弟ぎしはおかしい。八十神はどうやったって蝦夷ではないから。


これちゃんと論拠示そうと思ったら言語学と統計調査みたいになるのでしょうか。


結局のところ思うのは、何気なく疑問に感じるのはヨソモノだからなのかもしれない。でも、それに推察ながら答えを聞いたとき、ハハアなるほど、となるのは、実際にその土地で育ったものから、なのですねえ
いくら情熱的に調査研究をされとっても、実際に土地に生きるひとには勝てません


ただ、土地のひとの言葉がすべてかと言えばそれも違って、鵜呑みにするのは、ちょっと危ない。主観だから。

面の話

面のめも。

一番軽いのは、桐。
ただ目が荒いので、おもてに和紙をはり、胡粉を塗る。

能面は、小さいから檜を使う。檜は目がこまいので、おもてにそのまま胡粉を塗れる。

石見神楽面は重いのが多い?ので、桐ではなさそう?
当時の動きを考えると、集落とかの近くに何が生えていたのかによって材質が変わってるんじゃないかと推測。


張り子人形や和紙という文化は広くあるのに、面についてはそれ方式の面が他に見られないのも興味深いですね。
長浜面の脱かつ方式もだけど、市木面の型からはずす方式も聞かん。

木彫りは大型面には向かないけど、長期保存には適する。
その点、出雲の方の「三韓」とかはどうしたのかしらってかんじね。

和紙面、とくに長浜面は、神楽面の大型化や大蛇の蛇頭などの造形の発展に寄与したけど、水に弱いし朽ちるのが顕著。型がある限り量産もできる。


和紙とか張り子人形の、文化あるところの面を見たらまたなにか気付きみたいなのがあるかなあ