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舞ひあそぶ

神楽のこととか、日常のこととか。

「かめのふ」事情

かめのふ

言いにくいことは今のうちに言っとけシリーズ

 

石見神楽の中でずっとお世話になり、追っかけみたいな感じでもありいつの間にやら「かめのふ」と呼ばれる所以となった石見神楽亀山社中まあ、別のあだ名が浸透したせいであんまりそうやって呼んでくれないんだけれど。

私の師匠は亀山社中のナカのヒト。

石見神楽の見識はすべて師匠に習った、と大きい声で言える。

 

でも、どうにも厄介なことがある。

 

なまじ石見神楽を知っている人に、亀山が好きというとだいたいされる顔。

完全に思考停止、こちらが何を言っても聞こえないので、私も何も言わない。

向こうが言わんとすることはよくわかっている。

 

ついこの前まで、ずっと何でなんだろうなあと思っていたのだけれど、お茶の間で楽しんでいた「定番」をなんだかいじられちゃったような、そんな気持ちがあるのだろうかと、昨日のドリフターズの話のを聞いたあとにふと思った。

うん、きっとそうだ。

 

舞の見せ方はドリフターズじゃあなくなったのかもしれないけど。

ま、たまにいくらかめのふと言われても納得のいかないときもあるけど。

 

私には、神楽が「神楽」でありながらその可能性を広げようと、生きていこうとしている姿のように思える。それは間違えれば大衆演劇になりそうな危うさを、あえて背負い込んで綱渡りをしているような。それでも生きていこうと、時代の波を乗り越えようとしている、そんな感じ。

いままでだって、西洋化の波も明治維新も戦争も高度経済成長もえっちらおっちら乗り越えてきたんだから。

次は担い手がいなくなるという大波だけど、それでも次の時代へこのDNAを繋いでいきたいと、叫んでいるような。

 

波を乗り越えた先で残っているのは、亀山ではないかもしれない、といったら失礼だけど、波間に揉まれて揉まれてどう残るかは誰にもわからないけど、みんながみんな団体の伝統という網にこんがらがってしまっていたら、全員海の中に消えていってしまったということもありうるわけで。

 

いまだってさ、伝統を守ることだけに必死で、つまらなそうな顔してる人や型しか残せてない人や口だけは達者だけどすべてが中途半端な人もあちこちにいるよ。

それじゃあ神楽が「神楽」であり続けることは難しい。

名前の通り無形文化財。ただのハリボテになってしまう。

 

神楽は、土地を守る宮に人々が集い、宮の神に敬意を払い、共に楽しく饗するための酒であり肴であるのだから。

 

ということを、私は思考停止した人を眺めつつ、頭の中ではぐるぐる考えて、でもこんなこと言ったところでわかってももらえないのでもやもやするのですわ。