かぐら
神楽であること。
師匠が私の師匠になったのも、ここらのあたりで分かり合ったからだといってもいいのではないでしょうか。どうなんでしょうか。
まあ、勝手に押し掛け弟子入りしたようなもんなんだけどさ。
神楽自体、全国津々浦々見たわけではない。
花祭も岩手の神楽も、ほんの一部、ほんの一端しか見たことがない。
出雲神楽もほとんど海潮神楽だし、お宮では見たことないし。
石見神楽も地域に偏りがあったり、舞台神楽が多くなったり。
長い長い神楽の歴史の一瞬、たくさんの神楽のほんのちょっぴり、見させてもらっただけ。
その団体がどのような気持ちで舞っているのか、というのは案外見ててわかっちゃうんだな~
伝統を守るために舞う。
無形文化財として保護するために舞う。
大切なんだけど、義務感だから、なんかつまらなそうな顔して舞ってる。
それは見てて悲しくなっちゃう。
ああ、ここの神楽はなにか時代の大波が来たときになくなってしまうのではないかと、ちょっと心配になっちゃう。
どんなに好きでも愛してても、守れない大波もあるんだもん。
気仙沼のけんか七夕はどうなっちゃうのかな。
神楽ではないけど、復活しても、元の行政区画はなくなってしまったから、元通りにはなれない。うわああああああかなしいよおおおおおおお
三陸海岸あたりも内陸部とはまた違う素敵な文化がたっくさんあったと思うの。虎舞もそう。
あれれ、どんどん脱線しちゃった。
神楽が神楽であること。
神と人とが一つの場、舞庭に集ってともに過ごし、楽しむこと。
神に見せる、捧げる、というのは一番に大切なのだけれど、氏子も舞子も楽しくなきゃあねえ、と思うのです。
日本の神はアメーバみたいに分離できるけれど、自分の守っている土地に生きる人たちに会えるのは、ご神幸でおでかけしたり、お宮にみんなが来たりしたときだと思うのね。そしたらやっぱり、つまらなそーに義務感で舞われるより、本当に楽しそうに一生懸命舞ってくれたほうが、多少へたっぴでも音外れてても神様は喜ぶと思うのよね。
一緒に神楽を見てる人達がにこにこしてたら、多少お酒入ってクドくても、嬉しくなっちゃうと思う。
「ちはやふる 玉の御すだれ巻き上げて 神楽の声を聞くぞうれしき」
大好き。