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舞ひあそぶ

神楽のこととか、日常のこととか。

狭間に生きること。

ようやく明石のあたりまで来たのだけれど…西村の人たちはこんな遠くまで車で行ってるのね~すごいなあ

でも、みんなで行ってるからきっと楽しいんだろうなあ。

 

気楽な一人旅。

でもしゃべる相手はいないくせに人間はやたら多くて疲れた。

 

まだ一年たってないのにすっかりシマネナイズだよ。

 

ここ最近、ずっと悩んでいるのは「神楽の約束」のこと。

なんだろう?どういうのなんだろう?誰か教えてくれる人いないかなあ。

まだまだ不勉強でいけません。

 

約束って誰かと誰かかが任意の上で交わす契約のことなんだろうから、「神楽の約束」というものもそういうことなのかな?

聖書も旧約新約分かれているけど、あれは神が人へ向けて表した約束。

旧約は、ユダヤの人々に対して、必ずあなた方を導く救い主が現れるという約束。

イエス・キリストが生まれたことでその約束は達成されて、今度はキリストを信じるものは誰でも救われる、という新しい約束、契約。

簡単に言えばね。

 

神楽わっしょいしているけどキリスト教を学んでる歴の方が抜群に長かったりして。

 

キリスト教を知っているからこそ、日本の神が愛おしい。

なんだかよくわからないけど、私の中ではうまいこと共存してるのでした。

 

約束というのはわからないんですけど…

神楽が「神楽」であること。

前も書きましたね。

 

舞庭、斎庭に神と人とが集って饗宴すること。

難しいからあんまり話すの好きじゃないけど…神と人との前で神楽を舞い、祈り、そして楽しく過ごすことで鎮魂とタマフリの場になる。

たまに、鎮魂=タマフリみたいになってるのを見るけど、そうなのかな?私は鎮魂は死者、タマフリは今生きている人間の魂を揺り動かし、そして鎮めることなんじゃないかと思うのだけれど…難しいことはわかんないや。

 

あと、農村での一区切り。また来年も頑張ろう~みたいな。

 

それが氏神や、祖先神の前で決まった時期に行われる神楽なんじゃないかなあ~

里神楽っていうやつ。

 

たまーに偉そうな顔をして、人間はおまけで神に捧げるのじゃ!といわれるけど、そういう性質を持つ神楽は御神楽なんじゃないかなあ。

宮中でやって、非公開ってことは…天皇は神だもんねえ。

周りも人間っちゃ人間でも雲上人だもんねえ。

 

えーん、誰か教えてー

 

まあまあ、話は戻って。

 

多分、歴史を積み重ねれば積み重ねるほど、守るべきことが増えて行くのだと思う。

その社中らしさ、積み上げた舞法。装束。古老の言葉。

地層のようにたくさんたくさん積み重なって、それを後世の人は「伝統」と呼ぶ。

 

でも、今生きている人たちは今の時代を生きてる。

 

私は「伝統」の上に座り込んで今あるものを守ろうとするだけでは、結局何も守れないんじゃないかと思う。

狭間、波間、に生きてほしいなって思う。

どっちつかず!とか言われることもあるけど、それは違って…

 

悩める就活生をしていたときに、ある先生に言われたのが、「なぜ」という問いに性急に答えをだそうとせずとどまること。答えがないのなら、問いかけ続ければいい。

なるほどなあ~と思って救われました。

それといっしょで、「どうあるべきか」の問いに留まりつづける。

あえて時代と伝統の狭間に身を沈める。

削られて削られて苦しいけど、その狭間で取捨選択して残ったものは、尊い。

 

亀山としてどうあるべきか、というのをいつも頭の人が考えているのを感じている。

だからかめのふしたい。

 

だから、私も狭間にいないといけない。

 

なぜ島根なのか。なぜ島根の神楽なのか。なぜ石見神楽なのか。なぜ亀山なのか。

何にも背負わず来たからそんな程度でちっぽけなんだけれど、ゆらゆらと出雲と石見の狭間で揉まれて、それでもどちらにも優しい目を向けていたい。削られ磨かれた自分の感性を信じられるようになりたい。

 

難しいことは本当に苦手なのだけれど、先生が贈ってくれたスーザン・ソンタグ赤坂真理の言葉には救われたなあ。

誰かの言葉をそっと贈れる人って素敵。

 

あーどんどん脱線していくー

 

神楽が標本になったらダメで、変わらずに変わり続けること。

その土地で生きていくこと。

神と人と生きていくこと。

神楽だからできることなんじゃないかなあ。

 

でもやっぱ、こんだけ考えてみても約束はわかんないや。

ご教授求む。