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舞ひあそぶ

神楽のこととか、日常のこととか。

真面目な話をするつもりだったんですが

大変、いつも以上に、私事ですけれどもトイレの電球が切れました。おいおいおい……この年になってドア開けっぱなし?いやーん
天井が高くて圧迫感がなくていいのですが、そのぶん電球が切れると手が届きません。
ちなみに同じ理由でエアコンが掃除できていません。
いやー脚立買えばいいんだけどさーおとーちゃーんたすけてー。


なんの話をしたかったかと申しますれば、昨日の勢いで、「神迎」の話をしたかったのです。
自分はほとんど見た覚えがありませんので、聞き書きとか咀嚼したものとか。


「神迎」の詞章では四方を治める神とその神が守護する世界の美しさを讃えているなっていう印象。
ちょっと中央は同じように讃えるのは難しかったのだろうけれど。

長浜では「御崎山降りつ上りつ…」のくだりは省略するって聞いた気がするけれど、その一節以外は本当に美しい言葉を並べて神を讃えているからなんじゃないかなあ。
多分、長浜の人はそれを感じておられたんじゃないかなって。わからんですけど。

神様は美しい言葉に誘われて来られるのかな?
ま、たしかにヤジ飛ばされながらは来たくない。


とにかく「神迎」は、四方を拝して場を清めるのではなくて、神殿の中心に神を招請することに集中をする舞。
神殿の中心、祭りの中心、集まった人々の中心。

まあ、そうですよねー。
そのために「塩祓」があるんですから。
「茣蓙」も本質は茣蓙がえ神事で、あれも古いものから新しいものへ取り替えて、場を清めるためなのでしょうし、あの足運びは明確な禹歩ではないけれど、やっぱり大地を踏み固めているものだと思うのです。
そこまでやって神殿を整えてから、神をお呼びして迎える。

ま、年末の大掃除みたいなものですね。
新年を迎えるためというより本来は歳神を迎えるためのものですから。
あれも、大晦日ではいけないんですよね。
整えた状態で、その日を迎えないといけない。

ですので、個人的な思いとしては、「塩祓」だけとかならまあ場を清めるということでいいんですけど、いきなり「神迎」しかもそれだけっていうのはちょっと抵抗がある。
おうち散らかってますけど神様どうぞーって言ってることになりますから。
神様は潔癖症なんですっ
ていうかこのおうち神様のおうちだから!っていう。


だから台本でも「神迎」は儀式舞のあとの方に置いてるんじゃあないかなあ。


もし私がこういった資料の整理をしますってなったら、演目のならびは結構こだわりたい。でも多分やってるうちに面倒になってくる。そうなったらどうするかって言えば、最初と最後はきっちり意味を持ったならびにする。真ん中らへんの無難なやつは無難に適当に並べておく。
これは私の印象なんですが、台本にもちょっとそんなニオイがするんだぜい。

ちょいちょい大事なものは大事なところにいれてるんだろうけど…

昔の資料を見ていると、祭りの性質によって能舞は明らかに舞い分けていますので、普段舞う通りの順番に並べるということはできなかったと思うのです。

でも、多分「神楽」から「道がへし」くらいまでとは少なくともそのならびに意味があるのではないかなって。
なんでかといえば、ある信仰による舞と八幡信仰による舞が交互に来ているから。
ある信仰というのは、まだ自分のなかで確証はないのだけれど、熊野あたりだと思う。「鞨鼓」「切目」があるからそう思うんじゃなくて別の理由があるんですが、まだなんとも言えない。多分ほかの信仰も混じってるし。

「神楽」から「眞榊」と、「帯舞」
「神迎」と、「八幡」
「胴の口」から「切目」と、「道がへし」

ね。

だから、「帯舞」だけは残した。

でもなんで「帯舞」「俵舞」「茣蓙舞」は廃れちゃったのかな。


あと「八幡」は新しい舞で、あまり舞うことはないみたいだけど…
もともとあった「塵輪」よりももっと八幡神をたたえる演目が必要だったんじゃないかなと思います。

あ、出掛けの歌ってようは神を迎えるための歌なのか。「神迎」と一緒。
そして、人の呼びかけに応じて神が幕から出てくる。

だから「八幡」は、「神迎」を具象化したかんじ?
神迎えにより出てきた八幡麻呂。


なんていうか…
神楽って、祓い清める→神を呼ぶ、祓い清める→神を呼ぶっていう繰り返しなんですね。五神のあと神憑り神事が行われたのも同じ仕組みなのでしょう。

いま夜明かし舞で「五神」が最後に舞われるのは、神と人とが饗宴した…ようは宴会場を、きれいにお片付けをして、祓い清め、そして念には念をいれて大地を踏み締め邪を遠ざけるためなのでしょう。
とっ散らかったままではダメなのです。
神様はきれい好きだから!

だから、「五神」を見ていると、キンと澄んだ空気と白々明けていく空が思い出されて、晴れやかな気持ちと祭りの終わる寂しさを沸き立たせるのかな。


やはり、神職国学者が携わったから今日のベースになるこの詞章や神楽の深さ、美しさがあるのでしょう。