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舞ひあそぶ

神楽のこととか、日常のこととか。

ヤマバさんにうずもれたい

超絶しんどいけど、そうしたら、いろいろ考えなくてすむね。
明日でヤマバさんはひとりKOする予定。しないといけない。
がんばらなきゃ。
みんなつらいけど、次の日は来てしまう。
ぼうっと頭が回らないけど、お客さんの迷惑になってしまう


今日はちょっとだけ。
師匠から学んだ、石見神楽の美しさ。
神楽と師匠と出会うまで知らなかった、日本のかみさま。

前も何回か書いてるかもだけど、まあいいや。


「玉の御簾巻き上げて 神楽の声をきくぞうれし き」
たった一節のこの歌は本当に美しい。
八調子につたわる、神の側から詠んだ歌。
神楽は楽しいなあ、みんなが楽しそうでうれしいなあ、と神様に思ってもらいたい。そのための神楽なのだと。
これは、言の葉なのかもしれません。

神楽を霜月に奉納することが多いのは、この一年の収穫の感謝と一番太陽の力の弱まる時期の悪魔払いとタマフリがメインではありますが、それだけではなくて…次の年の豊作を「予祝」する意味合いもあるのです。
島根でも絶対そうだとは、文化の違いがあるのでいえないけれど、花祭とか、厳しい環境下で根付いた神楽にはよく見られる。田植え踊り、田植え舞、田楽も根本はそう。土地を鎮め囃すことで、豊作を願う。と同時にもう豊作を思い神に感謝を伝え祝っておく。祈願と予祝。
だから、山間部とかの神楽は少なからずその意味がある。
おそらく海沿いの豊漁祈願とかもそういう意味合いは含んでるかもしれない。


八調子の詞章改正には、石見統治の国学者が関わっています。
古い和歌とかの引用だけではなくて、歌の美しさ、信仰や思想の深さは、国学者の知識があったからこそでしょう
と、同時に、国学者が浜田に駐在していたがために、神がかりを伴う大元神事を捨てざるを得なかった、ということも忘れてはいけない。裏表なのです。

その神楽の過渡期を乗り越えて、いまの八調子は広く伝播した。
歌も、舞も囃子も、道具とかあらゆるものが、時代と人の求めるものだった。

例えば勢いがあるということは、時代に抑制されていた反動なのかもしれない。


師匠の言葉でなるほどなあとおもったのは、

氏子がなくては神はない。神がなくては氏子はない。
氏子が繁栄し、喜ぶさまが、神にとってはいちばんのご馳走。
崇拝者が争う姿を神は喜ぶわけはない。

ということば。これが石見における神楽と神と人との関係の捉え方はそんなかんじなのではないでしょうか。出雲と見せ方や神楽の立ち位置の認識がずれているのは、そういったそもそもの捉え方の違いがあるのではないでしょうか。


日本の、石見の、神道は優しい教えなのです



神楽の声を私も聞きたい。


あのね。
ひとりはやなんです。ひとりはやだ。ひとりはやだ。ひとりにしないでほしい。泣いちゃうから。だったら会社で頭を抱えていたい。ほかのことは忘れられるから。ひとりはやだよう。
ふたりなら、いい。ひとりじゃないから。残業してもご飯作ってくれるともっとうれしい。
ねこもいないの。家にはねこがいてくれた。黙ってそばにいてくれた。
誰か一緒にいてほしい。

ひとりはいやなの。