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舞ひあそぶ

神楽のこととか、日常のこととか。

飛んでく梅考

なんかいろいろ重なりに重なってしんどいけどがんばれがんばれといい聞かせつつ、なんか一人だとご飯食べる気分にも買い物に出る気分にもならなくて、クズまっしぐら。にゃんこをもふもふしたいなあ。
あ、自動車税を払うのを忘れないようにしないとね。
卵が開ける前に賞味期限切れそうって、どんだけ料理してないのちょっと。いつからなのか忘れちゃった。

人より私はキャパがちいこいんでしょうか。

だめねえ。

だめだよねえ。

なんだか、本当に謎なワードで検索にひっかかってしまって、こんな感じの好きなことを好きに書いている大した収穫もないブログで恐縮なんですが、何がひっかかるのかわからないので困りました。

と、いいつつ

道真の飛梅考。いつかはひっかかりそう。


八調子の「天神」。詞章が美しくて好きです。
六調子の台本は詞章が載ってないのが残念。

師匠に教えてもらった一節
心だに誠の道にかなひなば 祈らずとても神や守らん
私も、大好き。でもね、やっぱり祈らなきゃいけないときもあるみたい。

小難しいことは書く元気がないのだけれども。


梅は飛び桜は枯るる世の中に 何とて松はつれなかるらん


私は、飛梅の故事と、桜のように散り果てることを美徳とする日本人の精神論と、待つと松の掛詞が絡み合っているのだと解釈をしています。

梅と道真はきっと、深く愛し合っていたのでしょう。またそういう捉え方がフツウなので、神楽歌もそういう感じなのでしょう。
桜も主を愛していた。愛していたから、身を焦がすような苦しみだった。苦しくて、悲しくて。主がいないなら主と共に果てゆくか。他の誰かが主になるくらいなら。桜は枯れてしまった。それが桜の忠実な愛の形。

でも松は飛んでこないし枯れもしない。だからああ松はつれないなあ、はちょっと悲しい。
松は待つことが主への愛だったんじゃあないかなって。
主の帰りを待つ。主は正しい人だから、きっと帰ってくる。それを出迎えるものでありたい、そんな誠実さがあったんじゃないかなって、思うのです。

梅も桜も、主の正しさ云々はおいておいて、遠くへいってしまった、ということに嘆き悲しんだ。松は、主は太宰府へいってしまったけど、きっと、という希望にかけたんじゃあないでしょうか。べつにつれないわけじゃあない。
道真は、きっともう帰ることはないと思っていたのかもしれない。だから、松はきてもくれず、寂しかったかもしれないけど。
まあ追松の話もあるけどね。
六調子の台本に老松がでてくるのも興味深い。


どれが正しいかたちかわからない。
どれも主を愛するがゆえの選択。
きっと、どれも間違ってない。

私だったら、どんな選択をするんだろう。
この詞章を眺めていつもかんがえる。




心だに誠の道にかなひなば 祈らずとても神や守らん

梅よ匂えよ。飛んでいってくれよ。社なきところでも神が立ち寄ってくださるように。悪しきものを退けてくださるように。守られるように。

飛んでいくことも枯れることも選ばなかった松は、どんな気持ちだったのかな。