舞ひあそぶ

神楽のこととか、日常のこととか。

きえます、山籠り。

ええ。別についに思い余って江の川に入るとか宍道湖に入るとかそういうことではなくって、アッシーで山にこもってきます。ちゃんと帰ってくる予定ではあるんですけど。果たして電波があるのかは不明。
石が落ちてきませんように。猪にも出くわしませんように。

でもおかげで今週末も一人でトチ狂わずにやり過ごせそうです。いま一人はダメダメ。ダメ。体はちょっとそろそろ休ませたいけど、いまはだめ。
あ、むしろ隔絶した山のなかにいた方がいいのかもしれない。
知らなければ気がつかなければなんもない。これ以上にはならない。

わさび。わさび。


あーあ。



昨日はどっちかといえば演目のならびのことが言いたくって、妄想大爆発していたのですけれど、今日はちょっと補足で「音響効果はなし」っていったやつのはなし。

あーたしかにね、と感じることもあります。
スピーカーはこっち向いているので、うるさいときはおーいうるさいよーってなるのです。
たまに耳塞ぐ子とかもいたりして。
まあでも見る側の勝手と好み。音響調整は舞う側の勝手と好み。


私が音響効果のない神楽が見たかったのは、うるさいって感じるってことは逆に言えばきっとお宮は音をよく跳ね返すつくりなんだよなって、思ったからだったのでした。
能楽堂的な。音響効果といえば、床にツボが入ってるくらい。

そうか。能みたいに見てみたいのかもしれない。
あるいはやはり懐古的な思考なのか。


建築はよくわからないけど…北本願寺の能舞台なんかみてるとお宮に近いつくりなのではないでしょうか…時代的にもね。
三面はあいてるけど、でも本当に音がよく響く。

ただ問題は、石見のお宮はひともぎゅむむっと入るから音を吸収してしまうのですよね。たぶん。

出雲の方は、子どもは上がって見ていいけど…、みたいな雰囲気。あくまでも人には見せてやってる、みたいなとこがちょっとあって、でもその位置からの見方そのものは能とか芝居に似ていて、それはそれで。やっぱり神楽のあり方が違うんだな、と思うだけ。


でも石見のぎゅむむっと人の入ったお宮で、みんなが神楽を見て、全体の温度が上がって……んふ、たまらん。
人混みは嫌いだけど、これは辛抱してでも感じたい空気感。


去年の年末、浜田おさめしたとき、かめやまででかけたお宮で行けるとこはご挨拶にいってみたのです。
神楽がなかったら、かめのふしていなかったら、ご縁の繋がらなかったお宮たち。
ありがとうございましたーって。

でも、神楽のない日のお宮はなんだかひっそり眠ってるみたいだった。
神楽のある日はなんだかキラキラして高揚しているような粒子が空気中に漂っているみたいだったのに。
それとか、神楽の日よりもお宮が小さく見える。

あー神楽が好きなんだなあ。人が集まるのが嬉しいんだなあ。

って、思ったのでした。

ま、先祖神てことは、神楽はそりゃ好きよね。下手したら舞子だよね。


地元の神楽が、嫌いな人もいるでしょう。
いろんな理由で。

でも、地元に生きてきた…それこそ自分の人生の遥か何倍も時を重ねてきた地元の文化を、誇りに思えないのは、悲しいなあ。
神楽は、土地の記憶なのだとおもうのです。



音の話からずれてしまった。

まあ…音響効果をいれればそれはそれで、神楽の柔軟さを知ることになるんですけどね。
神楽スゲーよ。ほんとスゲーよ。

郡上おどりは、生き残るためにかなりよそものに迎合してしまったけれど、地元の人のために「むかしおどりの夕べ」という日を一日だけ設けています。
盆踊り本来の、うたと下駄の音だけが響く夜。
パッと調べた感じ、そっちにも狙って行くよそものもだいぶん多くなっているようですけれど。
かなしいなあ。


せっかく、土地をずうっと見守ってきた美しいお宮があるのです。
ちいさいころ師匠はどんな神楽を感じていたのかな。
ただただ、すなおに昔の宵を思いおこす日が一日だけ…あったら感じたい、思った。そういうことです。