舞ひあそぶ

神楽のこととか、備忘録の掃き溜め。

舞、という字

袖の広い衣を着たひとが、腕を広げて舞いおどる姿を表しているんだって。甲骨文字由来。

この前、深野さんのチラシを見つけたので、デスクに貼っつけて眺めていたら、「舞」の字がなんともいえず美しくて、電子辞書で調べたらそんなようなことが書いてありました。
あのフォントはなんだろう。ただの明朝…ではないかあ
ゴシックより明朝系のフォントのほうがいっそう文字の美しさが際立ちます。


原稿をやる気力もでなくて、ぐだぐだ頼長殿について調べてみたり。頼長殿、やっぱりすき、だなあ~。
「日本一の大学生」とまで言われた人なのに…天才とバカは紙一重なのかな…


昨日の神楽講習では、紙にびっしりメモとりすぎて結果的になにも読めない悲劇がおきました。
講師の方はどちらも卒論の時にお世話になっているので、聞いた話ばかりではありますが、何度聞いてもいいのです。くわえて師匠の言葉を思い出しつつ、何度も聞いて反芻して、目で見て復習をして、血肉にしていくのです。その土地に生まれていない者として。
私はこういうお話聞くの大好き。
時に神楽人としての思いや経験なども含みつつ。

覚えていてもらえてよかった。



三年たつと忘れていたこともあるし、一言言わせて!って気持ちになるものもあるし、あ!この話は初耳!とかもあるし、行ってよかったのだとは思いますが、あっちからこっちから言われて引くに引かれずまた検定を受けることに…うーんそのつもりじゃなかったんだけどな…まあいいか。
神楽ガイド検定とかならニヤニヤしながら受けるんだけどなあ。
広島の方面はなんだか結構神楽に予算つけられるんですから、審査員検定とかも設ければいいのにとかぶっちゃけ思いますけど。

いろいろ、面白かったのですが。

「人神一体の宴」。
師匠がずっと言っていたことを一言で表すとそうなるのか、とすごく納得です。

昨日の話と繋がりますが…
神楽は、舞子や関係者で繰り広げられるものを、与えられるものをただただ「眺める」のではなくて、氏子やよそ者たちも一緒に座を「つくる」もの。
神と人の宴をとりもつのが、お宮であり神楽である。

でも、これから先、祭りの体制を整え、座を一緒につくってきたコミュニティの力が弱くなるいっぽうなのは明らかで。
しかも、田舎側と街側ではその要因も異なっている。
本人たちの意識の問題だといいたくても、もはや当事者だけの問題ではなくなっているのですよね。

外から来たら来たで街には無関心や「個」が増えていくし。
住むには、帰るには、仕事がないし。

それでもいまいる神楽マンたちは働いてるやん、と思われたとしても、それ以上にないのです。

実は就活の時、もちろん私も調べましたよ。
でも行政が欲してるのは、単身より子持ちとか家族、サラリーマンより起業家とかおこし系とか福祉の人、なんですよね。あー思い出してきちゃった。
もやもや。

自分が、絶望的に地域コミュニティに属してこなかったし、いまも無縁の暮らしをしているから、余計に言いたいことに矛盾が生じてきてぐちゃぐちゃするのです。


でもねでもね、舞が好きで舞いたい、いつの時代もそれがこの土地の神楽の力だったのでしょう?誇りです。宝です。
誇っていいんです。
石見神楽は「神楽」なんです。
花火噴こうがキンキラキンだろうがなんだろうが「神楽」なんです。
見極めるべきは舞子の心根だけれど、それはどこへいったって同じことです。


よくわかんなくなってきたし、なんか苦しいなあ。


どうしたらいいんだろう?と答えのない問いをし続けているようですね。


もろもろ書き残したこととか、神楽のことは後日。