舞ひあそぶ

神楽のこととか、備忘録の掃き溜め。

いろいろ家のなかの本をゴソゴソしていましたら、石見の神楽についての言及がありましてですね。

神楽は「神が楽しむ」のか「神と共に楽しむなのか」…"石見神楽の源流"の邑智郡の大元神楽を見たら「神が楽しむ」ように思える、というような話。 

さあ、これまで私のぶつくさに気長にお付き合いいただいた方がおられましたら、何が言いたいかなんとなく察せられることでしょう。

まあ、それぞれ感じられることはさまざまですので、尊重はしないといけません。


でもね、あーた、書いている内容は、神楽というより大元神事だで。

なぜ藁蛇から献饌、とんで託舞あたりの話から一気に成就神楽で夜が明ける、になってしまうだ。
あいだの能舞はどうした!ぷぎー!

おい。編集はなぜおかしいと気がつかない。
おこ!おこ!
まつえの人が原稿書いて隣の出版社が出してるから仕方ないのか?いや、仕方ないって片付けていいのか?
よくなああああい!!!!


この人たちには罪はないでしょうが、邑智郡の大元神楽を源流と言い切るのも、もやっ

こうやって誤解が流布されていくんだ…悔しい。
もやもや。


たしかに祭りの夜をまず「神が楽しむ」ために、場を設えて、手に入りうるもののなかでもっとも良いものを神前に捧げて、神事を執り行うのは前提にあるでしょう。

でもさ、祭りは自分が見守っている氏子が集まってくれる日でしょ。自分が見守っている土地から成った実りが並ぶ日でしょ。
とびっきりの食卓を囲む人たちがつまらん顔していたり、ニコニコはしていてもなんか距離感があって自分一人だけが楽しんでるみたいな雰囲気だったら、どんなに美味しいご飯が並んでても楽しくないわ。私だって楽しくないわ。だったら孤食でいいわ。

違うのかなあああ。


なんか、ちょっとあれですけど、私のなかでビジュアルのイメージは、酒呑童子たちの酒宴とか竜宮城。ようは宴ですわな。

宴のために設えられた広間に、大将がいて、その他大勢わちゃわちゃして、ごっつぉとお酒を囲んでいる感じ。それを盛り上げる美女だったり舞だったり。見目の美しいもの。それがないとただのサラリーマンの飲み会。

大将が一番、見目の美しいものとごっつぉとお酒に酔いしれて楽しいんだけど、やっぱりきっと下っぱたちが楽しんでいるのを見ているのも楽しい。
ご機嫌で歌なぞ詠んでみたり、まあまああとは勝手によろしくやれって酔いつぶれたり。


あー、なんとなくいま思いましたのは、
そうやって楽しい雰囲気を作り出すことも、大将…神へのもてなしというか…それもまた大切な場の設えのひとつなんじゃないかなーってこと。
物理的な設えだけじゃ、ダメで。
神に楽しんでいただく空間を設えるためには、そういう雰囲気づくりをしないといけない。

だから、神とその社を中心として人が集まって、共に楽しむ宴を催して、神の心を慰めることでまた一年の庇護を求める…というか。


大元の神事だけを見て、石見神楽を知った気になるのはいけません。

もっと石見神楽は複雑で多様。そもそも邑智郡とか石見の中でも東と南は他文化圏との国境やん。
真ん中も西もひとくくりにできるわけがない。

それは、己への戒めも含めて。