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舞ひあそぶ

神楽のこととか、日常のこととか。

すさとごずとしょうき

かめのふ

師匠が調子悪いらしい。
むむむ…

だから、鍾馗の話する。
前もしたかな。まーいいか。

この前、お父さん二人に挟まれたときにした話。


なんで、八調子、浜田の神職国学者鍾馗スサノオが習合しているのを許さなかったのだろう、という話になったので、わたしが思うこと。

もともとは、多分、スサノオ牛頭天王が習合した、祇園信仰が根底にあるんだと思うのです。

古来、毒を以て毒を制する、というような考え方があって、天つ神の最高位アマテラスの弟にして、国つ神にくだったスサノオは、最強の「毒」。
アマテラスを岩戸の中に隠れせしめただけの凶悪さがある。

元人間で最強、最凶といわれるのは、菅公と崇徳天皇なんじゃないかなあ。


とにかく、そういう元祖困った君と、人間がもっとも恐れた病。…おそらく、昔は老いるより先に病で死ぬことが多かったでしょう。まあ、困った君祀れば最強の守り神になるだろうという、思考の転換。
ポジティブともいえるし、それだけなりふり構わず、切実な祈りだったともいえる。


で、牛頭天王がなんだったか忘れたけど、なんかスサノオと習合したわけです。

ちなみに、やたらめったら激しかったり派手だったりする祭りが残ってるところは、スサノオとか、祇園さんが祭られている率が高いのですよ。
あと、都市部に多いかな。
都市部は疫病が流行りやすかったですから。


そんな背景がありますので、スサノオ(牛頭天王)対疫病と、鍾馗対虚耗が同一視というか、ひとくくりにありがたい厄よけになるのは、まあ仕方のないことでしょう。

どこだったかな。
なんか鬼瓦的な感じで鍾馗の土人形?焼き物?が屋根に据えてある地域とか家もあるみたいですね。


それでもって、備後国には、蘇民将来の神話がある。そして、いつ成立かまでは知らんけど謡曲には「鍾馗」がある。
だから、六調子地域に見られる「鍾馗」が生まれたのでしょう。

那賀郡沿岸部も多分同じようにスサノオ鍾馗がいっしょくたになっていたんではないかと推測します。
ある意味、そっちの方が自然だから。


ではなぜ、八調子地域では、スサノオ色を、神楽歌の一節を除いて切り捨てたのか?

それは、明治維新
というか、神仏分離令廃仏毀釈が関係していると思います。

まず、スサノオと当初より習合していた牛頭天王は、仏教サイドのひと。
廃仏毀釈で徹底的に破壊されたひとのひとり。

花祭りのある天竜川地域では、牛頭天王が祀られてる祠が、国学者だったかな?極端な思考の持ち主の手によって、破壊され、本尊だった牛頭天王の像は川に流されてしまったという話が残るほど。
大学のときに読んで衝撃的だったので本の名前とかは忘れたけど、その話は覚えてます。

極端な思考の人がいると、そうなるんですけど、ようは、国学者にとっては「不都合」であるわけですな。

仏教サイドのひととごたまぜにされたり、ただの元一般ピーポーな鍾馗とごたまぜにされたりするんですから。

天皇の先祖神の弟、つまりその血筋に連なる神が、科挙に落ちて死んでしまった人と一緒にされるのは、やっぱり気持ち的に許せないんじゃないかな。
国学者がね。


あとは、とにかくそういう時代の流れに飲まれて、失われてはいけない、大切な舞であった、というのもあるとおもいます。

鍾馗」という演目の重要性。

それは、石見にいきる人たちのほうがわかっておられると思いますが。
古老の話とかを聞いてね。

失わないために、堂々と舞うために、そして、教化のために、鍾馗スサノオを分けたんじゃないかなあーって、思います。

じゃあなぜ、スサノオの神楽歌が残っているのか、というのは、よくわからない。
周りや本人たちも心のなかでは抵抗があったのかもしれないし、六調子時代の名残を捨てきれなかったのかもしれない。


結果的に、六調子の「鍾馗」も八調子の「鍾馗」も、どっちも失われることなくいまに舞い継がれているのは、ものすごく幸いなことです。
舞う人たちのプライドや、見る人たちの要請があってこそ。
地域性があってこそ。

だから、どっちが正しいとかおかしいとかじゃなくて、このまま、どっちも素晴らしいんだから、舞い継がれ続けるといいなあと、本当に心から思うのです。



師匠のなかで暴れる疫神が、鍾馗にとって食われますように。