舞ひあそぶ

神楽のこととか、日常のこととか。

めめめも

神楽についてぼんやり考えていたら、なんとなく思ったこと

なんか疲れちゃってるから、今日はメモ程度。

採り物神楽とか、獅子神楽とか、いろいろあるけど、大きく分けるとふたつの「見せ方」というか「在り方」があるのかな?って。

それぞれがいろんな時代にいろんな宗教者の影響を受けて成り立っているから、明確にわかれてるのは、少ないかもだけど。


ひとつは、「まわり神楽」の特性。
神が、人のところへやってくる。
マレビト論系か?

家へ訪ねてくる。
家から家へ、神が、移動していく。
伊勢の大神楽とか、東北の権現様とか。ナマハゲなんかもそうなのでは?
三河花祭りも、氏神さまの前でヘンバイ踏んだあとは家々をめぐって踏み踏みしてるから、それ。

それで、んーと花祭りの花宿が他ではなんていうのかド忘れだけど、お旅所みたいな、役割を「家」が担ってることも。
今はそれが段々やれなくて、公民館なんかのところも多い。

コワイものも、アリガタイものも、わーわーやってくる。家へずかずか入り込んでくる。
だいたいは祝福を授けて帰っていく。
そうあってほしい、っていう人間の勝手な願い。


権現様はまわったあとってどうされてるんだろう。ああ、山伏神楽だから基本はお宮に戻られるのかなあ。



それでふと、石見神楽は「まわる」ことをしないな、って。
御神輿で土地をめぐられて、見てまわられることはあるけど、家にあがってくる文化はこっちで聞かない気がする。
昔は、どうなんでしょう?

どっちかといえば、神のもとへ、人が集う。


たぶん、もしかしたら、それが「能」と呼ばれる所以なのかもしれない。
同じ東北の神楽でも、権現様じゃない神楽演目は舞台組んだりして舞う。たしか「能舞」っていうとこもあったような。

忘れちゃった。あんなに調べたのに、なさけない。



①神が直接訪れてきて、祝福や加護を授けていく
神と人との個人的なやりとりの具現化
大きくても、家単位。

②神のもとへ集まって、祝福や加護を授かる
神を介して人と人、コミュニティの繋がりの再確認
いくつかの家が集まった地区とか地域単位。

なのかなあ。
ぐちゃぐちゃな頭をぐちゃぐちゃなまま書いてますけど


大元神そのものは、①の特性をもってるはず。
家単位だから。
そしたら、そういう祭式がなかったとはいえない。

でも②が圧倒的につよい。

私のイメージでは高千穂も②が強い気がする。


なんだろう。
なんか理由がありそうなんだよな。
影響を与えた宗教者なのか、地域的な都合か。

ほんのすこしの名残は、「黒塚」の悪狐ちゃんとか、「頼政」のお猿さんたちとか。

コワイけど、なんだか優しい。




ふって、出てきたこと
イエス様が、うーんこういうと怒られるのかもだけど「生きていた」ときって、ご自身から、人のところへ赴かれたんですよね。
肉体があるとき。

山上の説教なんかがフォーカス当てられやすいけど、イエス様の話のなかで、本当によく描かれている姿は、人との個人的なやりとりだった気がするのです。
もう、かなり離れてしまってるんで、自信ないけれども。

①、なのかな。


でも、イエス様が十字架にかけられてあーじゃこーじゃあったあと「見えなくなる」んです。肉体がなくなってしまう。
で、あーじゃこーじゃで、できたのが、教会。
だいぶ時間飛ばしたけどそんな感じ。

②になる。

まー宗教ですからね。なんかしら似たところはあるんだろうな。


私は、団体行動ができないので、②が強くなりすぎる場所はなじめなくて、離脱してしまった。
今のところお宮や神楽との距離感は比較的①に近いから、心地よいのかもしれないなとかぼんやり思ったりして。



関係あるやらないやらわからんけど、そんなこと思ったりしたのですよ。



権現様の「権現」は、仮の姿をとって現れる、という意味。

そういう存在に仕立てられたのは、山伏とか宗教者側の思惑が働いてのことなのだけれど、権現様は、人のところへ自ら赴くために、形をとられたのかな、とか妄想してみると、なんだか心が救われる。

イエス様、という存在も、権現様みたいなもんなんだろうか。
そんなこといったらキリスト教の人々に潰されるやもしれん。わははは



んー①も②もちょうどよいバランスであるから、
本当になにか人間の存在を脅かすような出来事があったときに、人を生かすんだろうなあ。

だから神楽は生きてきたのかなあ。