舞ひあそぶ

神楽のこととか、日常のこととか。

めそめそ太郎は面をかけられない

タイトルはとくに意味がない。

なんかよくわかんないけど、落ち込みぎみで、昨日はなんか家帰ってからずっとめそめそでした。今朝の顔は最悪だった。
今日もちょっとめそめそ。
何が悲しいんだかよくわからない。

でも仕事以外で声出してしゃべる話し相手がいなくなって久しいので、涙を出すのはちょっとスッキリする気がする。
強くならなきゃなあ



能面の本を読んでのメモなぞ。

能はかつて田楽能と猿楽能があって、いまは猿楽能をルーツにもつのだけれど、そのルーツは奈良時代に大陸から渡来した散楽なのだそう。平安時代に猿楽となったのか。田楽も同時代の成立なのだろうなあ。田楽は、田植え踊りとかそっちに残っているはず。
能、狂言は、音楽、舞踊、演劇の融合した、総合芸術だとあったけど、採り物神楽系統もこの部類にいれていいと思う。能楽が少なからず影響を与えているだろうし。

総合芸術は、プロパガンダとしての役割もあったのだろうと、私は思うのです。

いつの時代も宗教と芸術は隣り合わせだったから。文化とはそこから生まれてきたから。


能面は、神仏、天人、鬼神、仙人、亡霊、動植物の精など、あらゆるものを表現します。
興味深いのは、生身の、特に壮年の男性は直面で、老人と女は面をかけるということ。
男性、しかも稚児とかではなくて、ちょうどよく熟した歳の男性が担ってきたのだろうし、その男性そのものが「現実」を唯一あらわすものだったんじゃないかなあ。老人や女は、おなじ人間であるけど、彼らの感性的にどこか「現実」ではない存在みたいな。

狂言では、女は直面で表現する。
狂言のほうがより世俗的というか、大衆に近かったから、女もまた「現実」に生きる存在であったということかなあ。

能と狂言が、いつの頃からなのか不勉強なのでわからないのだけど、寄り添って生きてきたのは、夢と現実、陰と陽、ふたつでひとつの世界をあらわしてるからなのかなって。離してしまったら、どちらかが廃れて消えてしまったら、もう一方は世界の半分しか表現できなくて、きっとそれもまた消えてしまうのかなって。


読んでいた本でいいなあと思ったのが、面のことを「変身の道具であるとともに演出家に似た絶対的存在」といっていて、これが「面」のもつ力だし、彼らがそのものを神体として大切にする所以なのかなあと。
舞う人が、個という人間を超越するための道具であるし、面そのものがキャラクターであって、人はそのキャラクターに抗わず寄り添うことで、ある個という人間を超えた「なにか」になる。
人が演じるんじゃなくて、面が肉体をもって立ち現れる感じ。

きっと師匠なら言いたいことわかってくれる…は、ず?

むずかしいなあ。


石見神楽において、面は、神体としての役割を持たないけど、神職の時代からずうっと顔を変えずに受け継がれてきた面なんかは、おおよそ近い存在なんじゃないかな。
般若面、兄まあ面、切目面、とか。
そのものが性格を持っている。


能楽師狂言師は、「磨きあげた感性と知性で、融通無碍、自由な世界に遊び、愛情に基づく面の使用選択」をするとあったけど、おそらくは、神楽面も含め、古老から受け継がれる、その面のキャラクターを知りつくし、演目を知りつくしている人が許されるアソビなのでしょう。
面とともに舞い遊ぶ。


いやはやなんとも、知り得ない世界なのであります