舞ひあそぶ

神楽のこととか、備忘録の掃き溜め。

キャラクター


家で、いただいた神楽カレンダーと、前年までのやつで切って取っておいてある写真を、歯磨きながら眺めていて、やっぱり本質はこのキャラクターそのものへの愛情なんだよなあと思ったのです。

結局のところ、面を外して化粧を施すことでは、「個人」あるいは「我」を消し得ないというか。
なぜ面をかけるのかといえば「我」をあるものに"依り"添わすためだから…


たぶん、たぶんなんですけど、最近ことに言われるある人にたいする「おっかけ」が増えてきたのは、化粧舞の文化にも関係があると思うし、すごい語弊はあるんだけれども、「我」のある証拠なのだとも思う。
キャラクターの向こうにいる「個人」を見てキャーとしているというか…

まあ私も師匠キャーとか同じようなもんなんですけど。

何を舞っても、何を奏しても、魅せる人はおられます
あるいは、この舞はこの人!みたいな名手もおられます。

でもその場合って、「この人の○○はええなあ」なのですよね。
「この人の胴はええなあ」「この人の神はええなあ」「この人の鬼はええなあ」
その人を通して聞かせる音や、たち現れるものたちにたいしての"ええなあ"。


「○○のあの人がカッコいい」だと、それの向こうにいる「あの人」を見てしまっている。


化粧だと顔面の良さとか、声の良さとかそっちに意識もいってしまう。
面をかけて、顔がわからない、声も面越し、それでも美しい所作で魅せるか、どれだけそのキャラクターそのものに生き生きとした肉体を与えるかが、能とか仮面劇の真髄だとも思う。

うーん。よくわからなくなった。