舞ひあそぶ

神楽のこととか、備忘録の掃き溜め。

時速40キロ

今日は一日なんだかどこへいっても前の車が40キロで走ってる日でした。たまにあるのよねー。
きっと外回り仕事あるある。



温故知新。

故きを温ねて新しきを知る。


言うのは易し。


古きを知り、尊ぶのは大切なことで、それは文献だけではある一面しか知り得なくて、古老の言葉とか、土地の記憶とか、あらゆる面、パーツパーツを組み合わせながら、思いを馳せること。過去だから、想像しながらなことも多い。
そのなかで、「古きを継いでいる」存在がどれだけ貴重であろうかと。
だから、あの手この手、良いんだか悪いんだかいろんな方法で保存、時を止めてしまおうと、ずうっとしてきた。

ふと立ち止まったとき、あるいは迷子になったとき、道しるべにはなる。

でも我々が意識をして思いめぐらさなければならないのは、それがいつから"古い" "伝統"と呼ばれるものになったのだろうか、ということなのかなとも、思うのです。

それは後世の人が判断したことであって、もともとはその時代その時代で流行ってきたこと、面白かったこと、あらゆる"最新"であったはず。
それがいつしか、失速したのか、世界が速すぎたのか、あるいは止まってしまったのか、古いものとなった。

もちろん残っている、伝えている、継いでいる、それはものすごいエネルギーを使うこと。偉大だなあと思うし、ありがとうって思う。素直に。だから、敬意を払うし、尊敬する。
ただし、胡座をかいていいかは、それは違う話。


むかーしむかし、
衣装も、面も、見せ方も。
ああなんてイケてるんだろう。ああ真似したい。どうせならもっとかっこよく。もっと、もっと。そういう気持ちが、本当はあったと思う。自分達ができる範囲、調達できるもので、どうしたらいいんだろう?って考えていたと思う。

それがいつしか、気がついたら古式になっていた。

どこで止まってしまったのかは、よくわからないよ。
きっと主に昭和あたりなんだろうと思うけど。



知り得ないから、思いを馳せる。
いろんなパーツを拾い集めて、たずね求める。
真実とか、答えとかじゃなくて、なんかもっと小さくてはっきりしない感じ。主観の寄せ集めみたいな。

それをごっくんと呑み込んで、なんか新しいものがまた出てくる。
感覚とか、知識とか、思いとか。

それがまたながーいながーい目で見たら、文化となっていく。いろんな人の吐き出した新しいものがまた、寄せ集まって大きく大きくなって、文化となっていく。


そのなかには、ちょっと思ったのと違って一発屋的な感じとか、物理的とか何らかの事情で分断されたりとか、するものらもあるんだと思う。あるもんなんだと思う。
でもそれらもまた、いつか誰かが、気がついて拾うかもしれない。


私の考える温故知新。
絵で描いた方がイメージわきそうだけど、なんたって絵心ない。

師匠は、どういうふうにその言葉を考えておられるのか、いつか聞いてみたいであります。


ともあれ、多分、いままでは、そのサイクルがゆっくりゆっくりだったんじゃないかな。時速40キロかそれ以下。

それが、気がつけば今は超加速していて、常に首都高を走っているような。
でも、気を付けて。
スピードの出しすぎは事故のもとだから。
煽ったらダメだから。
なにより、気が短くなるというか、セカセカセカセカして他者に優しくなれなくなっちゃうから。

時速40キロで、春の風を感じながら、景色を楽しみながら走るくらいが本当は良いのかも。