舞ひあそぶ

神楽のこととか、日常のこととか。

雉も鳴かずば

撃たれまい。
それでも、鳴いてしまうは愛するものを想うが故なのでありましょうか。

はてさて会社のまわりでケンケン聞こえる季節がやって来ました。野鳥ウォッチするには最適の職場であります。
まだ越冬隊もちょっといるしね。
オオバンちゃんがいつ見てもぷりちー。


久しぶりに、師匠から教わったことめも。
ストックがかなり増えてきた。むふふ



いっちばんさいしょ、だから、四年前かな。東京社中の方が、所作や採物には意味があってね…みたいな話をしてくださって、ふんふんなるほどと思い心に留めておったのですけれども。
ふと、師匠にそのことについて尋ねたことがあって。

古老や師に、所作について教わることは、一番大切な財産で、師事した証でもある。ま、でも聞いてくれなきゃ語らないよね。
というような話になって、多分、そうやって、石見だけじゃなくいろんな世の中で神楽とか、芸能とか、技とか継いできたんだろうなあとかぼんやり思ったのでした。

根源的には、能楽とか歌舞伎とかと、神楽とか民俗芸能は、継承のしかたとか根にある部分は同じだと思います。
能楽とかって、あるところで時間を止めたというか、限界まで進む時間を遅らせて、昔の姿をとどめていると考えられるから、今では奇異に見える在り方も、いつかの時代はそれが一般的な姿だったわけで。
で、そんな人たちと共通するものがあるってことは、どこかでいつかは重なるんだと思うのです。
ただ神楽、とくに石見地域では、進む時間が能楽とかと反比例な勢いで速かったんだとも思う。でも、掃いて捨てて無くならなかった…気概なのかなあ。なんかふるくさいところもある。
あ、いなかだから?
都市部だったらそれすら難しいのかもなあ。
閉鎖的だから?封建的?


採物の話も面白かったけど、舞わない自分が書くのもなんかなあって感じ。
もう少し自分なりに咀嚼してからにするか。


難しいなあと最近感じるのは、雉も鳴かずば、なところもあるんですよねえ。
撃たれるやもしれない。
撃たれるのは鳴いた自分かもしれないし、想うた相手かもしれない。
でも、鳴かなければ、誰の耳にも心にも届かない。

だったら想うて鳴こうかな。

ううむ。

別に今日はあんまり憂鬱な訳ではないけど、雉の声聞いてからなんとなく考えてしまったのでした。
「雉も鳴かずば…」の昔話が強烈すぎて。
題名までは覚えていないけど有名なのかな?いまだに忘れられないや。



結局のところ、身のうちに神楽が無いから、その土地に生きていないから、舞について私は師匠から聞くことはできないし、でもそれでいいんだと思っていて。
それは、私じゃないどなたかがされたらいいこと。
なんでかっていえば、師匠が師から習い覚えたことや、古老から継いだ想いとかを正しく受け継ぐには、むしろそうでなければいけないと思うから。所詮自分はよそものだから。卑屈とかじゃなく、動かしがたい事実として。

自分はアッシーはできても、てごはできないなあと思うのも、そこらへんに起因するところはあるのです。それでもって、超絶な運動神経の悪さがそれに加わる。
周りがどう思ってるかは知らんけど、自分の考えるかめのふの立ち位置。あくまでも近いとこの周りで全力できゃーきゃーするかめのふ。
でも、ごめんアッシーかも!は言われても、てごぉしてくれえ言われないってことは、許容してもらってるんだろうなあ、とか勝手に解釈。


うーん、でも、実際舞っていたら、素直に聞けなかったりするもんなんでしょうか。
永遠の反抗期というか思春期というか。
そういったあたりが全く想像つかない時点でダメなんよねえ。無いんよねえ。


結局またとりとめ無くなってしまった。