舞ひあそぶ

神楽のこととか、日常のこととか。

ぶらぶらぶらんでー

ブランデーは飲みつけないので未知なのと、ウイスキーはお子ちゃまなので好みません。ブランデーって気付け薬的なイメージ。あるいはお菓子。

あとに残らないのは焼酎ですが、熱燗を楽しみたい季節になりもうした。楽しみたいっていうか、もうそれくらいしないと体温が上がらん。朝から体が冷えて起きるの辛い季節到来であります。
よく考えたらもしかしてそっちの苦しい期間の方が長いのか…?


本気で忙しくて本気でしんどいんすけど。

酒よりぬくぬく眠らせてけろ。ふへー



なんていうかね、この土地において来訪者であり、観光客でもあり、それでいて業者でもあるわけで、トクなのかトクじゃないのか、回り回って知らぬが仏なことにたくさん出会う羽目になるのですが。

神楽を観光資源、コンテンツとしての側面を持たせること自体は、至極自然なことだと思っていて。
というのも、私自身、神楽があるからこそ、石見へえっちらおっちら出掛けているから。あるいは、実家にいた頃は、神楽があるから、奥三河へも行ったし、岩手へも行った。

これで、温泉だけ、食べ物だけ、では難しいわなあ。よほどの凝り性でないと。
神楽、あるいは祭りとでもいおうか。
そういったものは、もちろん、それ単体では期間限定なのでよう成り立たんかもだけれど、大体そういうところって温泉あったり食べ物おいしかったりするので、総合的な魅力で、その土地へ行ってみようかなって思わせるんよね。
そして、それでよい出会いがあれば、戻ってくる。


いろんな団体、よそもんがくるのは嫌だなあってとこもあっていいし、そもそも祭りが少なーてレアキャラってとこもあっていいし、いたしくてよー舞えんってとこも、悲しいけど現実あるわけで。
それはそれでいい。無理のない範囲、自分達の思う範囲で、できる限り継いでほしいし、それにたいしてなにかできることはあるだろうかなあと、よそもんながら思う。


ともあれこれだけ団体があるのに、それを無視して、食べ物と温泉だけで勝負しようってのは無理な話ですわ。
だって日本海の幸、山の幸、温泉、どれも他のとこにだってあるもん。
ナンバーワンでもオンリーワンでもない。

神楽はそれぞれ影響の授受、寡多はあっても、その土地のオンリーワン。



私が、ブランディングなんちゃらで、違和感を覚え続けていたのは、コンテンツ云々というより、彼らのやり方は、「モノ」としてのコンテンツ扱いをしているように見えるからなんだなって、師匠にうだうだ話しかけていたら思いましたのですよ。

「モノ」のブランディング、たとえばどんちっちな3魚であれば、漁師さんのストーリーも大事だけど、それより、魚そのもののトピックをメインで立てますわね。
脂ノリがどーのとか、漁獲のなんかがどーのとか。

魚というモノをどうやって魅力的に見せていくかが重要課題。


神楽は、モノではない。
特に、「くらし」をアピールしたいならなおさら、そこには、モノとしての神楽というよりヒトとしての神楽というか、より複雑な階層になっているのよね。

関わっている人たちの営み、思い、とかそっち。

そしてそこには、地域の数だけ、団体の数だけ、営み、思い、諸々あるわけで。それをブランディングするって、相当大変なことだし、関係各所あらゆる人たちが連携しないとできないこと。

今のところ、それが全く感じられないからイヤ。
周知、道理もろくに通さずに、手頃なところでの見切り発車感がある。

ブランディングというのは、軸を立てて、それに合わせてPRや広報物つくりや、果ては人の意識改革をして一本の筋道にするということ。

ただ、この立てた軸そのものが、ずぶずぶ沼地に立てたようなものであれば、もー残念なことこの上なしだけどね。

ディレクターは、親の言うことの気まぐれに翻弄されたらいけない。軸がぶれないように統制をとるための存在だから。
そしてディレクターはあくまでもディレクターであって、親ではない。親は雇い主。

親の目指すゴールを聞き、一緒にきちんと中身をつめて、かつ、そこに巻き込まれる関係各所にどういった意図でやるのか、なぜ協力してもらいたいのか、協力してもらった部分はどういうふうになっていくのか、説明できるくらいじゃないといけんの。
時には、親が突然言い出したことにたいして、それは軸から外れるからダメ!って、代替案やら妥協案やら出して突っ返すことだってある。


神楽の場合、取材先・取材相手だけが、関係各所というわけにはならん。
もっともっと大きい。
その人の神楽論が総論なわけでもないし、そこが神楽の全体像なわけでもないし、そもそも適任なのか?という問題も究極ありますわなあ。
普通は、親が、適任を推すなり、様子を分かっている人が客観的な理由でもって推挙するもんだと、思っていたのですが、それって違うのかなあ。


じゃあお前、かめやまの東京公演はなんなんじゃいとかいわれそうだけどね。
あれは自営でやっておられますからねえ。

あれはあれで、「かめやま」だっていう軸があってのことなので、筋道は通ってるんだなあと最近思うようになりました。大人になった。
あとやっぱり、通す道理は通しておられる。
媚を売るわけではなく、端から見た感想。

確かに、かめやまが、石見神楽の全体像を表すわけではない。あくまでもほんの一部。

ほんとのとこは、純粋にコンテンツとしての周知を図るぶんにはどこでもいいっちゃどこでもいいのだけれどもね。
あれはそこにメイン軸があるわけではない。多分あくまでもそれはサブ。


オチがなんなのかわからんやになってきたけどさ。

なーーーーんかもやっともやっとするんよねえ
業者ゆえに中途半端にポロポロ見えてるのがまたもどかしい。見えてるのに見てるだけ。キィー




ただ私は神楽についてはやっぱり研究としてのほうでの関わりかたがいいなあー
それだって客観性や協力や道理は必要だけどさー。

というのは、まだまだ知らんから。
己の疑問の回収と妄想力強化と知識の蓄積の方が楽しいしね。
なぜ人はこの現代社会において神楽を舞うのか。集うのか。継ぐのか。熱狂するのか。
私の軸はこれ。

軸のくせに「か。」といってる時点で疑問形やし。
でも、ずっとこれからブレていないのよ。


はあーねむ。