舞ひあそぶ

神楽のこととか、備忘録の掃き溜め。

秋、村まつりみたいな。そのいち

あの名前忘れたけど細胞分裂中みたいな形の柿がふっくらおいしそうにぶら下がっていたり、まちのバイク屋さんから出てきた若者がヨタヨタ走っていくのを見えなくなるまで店主っぽいおじさんが見守っていたり、毎週納品に行くとこの守衛さんがはじめて話しかけてきて大山がきれいな時期だねってお話ししたり、なんか、ああ秋だなーって感じ。でも大山行ったことないよ。
よくわからないけど、ああ秋だなあ。
ちょっとしたことがほんわかするような。寂しいような。


今週ははからずも一日おきに神楽を見ていまして。本当に秋。

まずは、火曜のぶんから書いていきましょうね。


火曜は、矢上の式年祭へ。諏訪神社
どうしてこれにしぼったかといえば、社格を考慮すると、ここの式年祭は「邑智郡の大元神楽」として見る価値があるのでは、学びがあるのでは、と思ったから。

結論から申せば、仕事さえなければ日貫の大原へ行くべきだったかな。アタリは多分そっち。

でも、よい学びではありました。

そもそもビックリぽんだったのが、またもやネット情報でハズレを引きましてね、21時からだとのことで、いわみ温泉とかで一生懸命時間を潰して、20時過ぎに満を持していったらなんと17時スタートだったという。
おいいいいいい聞こえてた囃子は練習じゃなくて本番だったんかい!!
この前の中野はそもそも前の日だったからそれよりはいいんですけどね。見られるだけね。
でもやっぱりお宮は相当でしたね。
でかすぎて夜は全容が知れん。
暗いけど、祭りだからなんとなく優しい空気。鳥居の辺が一番暗くて空気も怖かった。

結局17:00-3:00くらいだったのかな?

潜り込んだときには数演目舞ったあとで、儀式の最中でした。
祝詞かなにかを上げられて、一番偉そうな宮司さん?が、孫悟空タイプの日輪がついた冠?環?をつけておられて、神職さんが7人藁蛇のある祭壇から順番に降りてくるところ。

「献饌」は、ちょっとトラブルもありましたが、柿とか地のものは大きくて立派なものを調えられてる印象。キビとか粟っぽいなにかもありましたので五穀はきちんとあるんでしょう。枝豆もあった。
あと反物とか和紙とか炭?みたいなのとか。
イマドキなお菓子もあって、神様もお菓子好きなのねみたいな。
桜江でみたときよりめっちゃ速やかなバケツリレー。
それで「撤饌」になりますけど、前も思ったけど、あれ神様ってめっちゃ早食いなんかなあ。
それか口がめっちゃでかい。
神様も忙しないなあ。

で、巫女舞。「浦安の舞」だかなんだかでしょうか。録音の音源だったので、なんやようわからん。
使ってるものが違いますからね。

そのあとは神楽団による舞。
子どもの「神武」大人の「大江山」「天蓋」「塵輪」「鍾馗」。自分はここでさようならでしたが「大蛇」「御綱祭」。

なんというか…ちょいちょいあなたはもしかしてC-3POかな?みたいな方がおられたり、素朴。舞を楽しむなら私は日貫の方が好みかしら。

例祭では舞う演目数が少ないらしい?くて、4年に1回しか舞わない演目も多いよう。かつ、古老がなくなられてうまく継承できなくて、いろいろ思い出しながらされたとのことで、ちょっと練習しきれなかったところもあるようです。


気のついたことの一部をメモ程度に。

「神武」は、兄神の仇をどーたらって聞こえたのですが、ようわからん。小さい子達が頑張っていました。

大江山」は童子さまの腰かけなさってる台の敷物が、ハートのフェルト地ブランケットだったのが大変チャーミング。
2対2だったのですがそれぞれツレが誰なのかいまいちわからず。問答がわりかしあっさりだったかな。

塵輪」は、神がうっかり二人とも青い方着けて出てきちゃったのでやり直し。幕の中も外も慌てる。正しくは青と赤です。あの帯みたいなのはその都度巻いてるわけではないのね。
師匠曰く、その土地の文化なのでは?とのことでしたが、地元の人参加型でなんかわちゃわちゃ。
鍾馗の採り物もったり酒瓶持ったりズボン脱げたりした人達が鬼やら神やらに絡む感じ。
邑智郡は塵輪のバリエーションが豊かで興味深いですね。大量発生したりしつこかったり観客席側から出てきたり、テンションがよくわからないカオス空間だったり。

鍾馗」は、ナスビちゃんでしたが、ちとゾンビみたいでこわげでした。
ぺちゃんって座り込んでじーっと固まっているときに、まだまだ!という。そういわれるとちょっとだけ首を振る感じ。あのザイでなにかを探る感じがちょっと不気味さをあおります。
面が途中から外れかけて気もそぞろになってしまったご様子。

そういえば、口上で「首を切って城郭にかける」って聞こえたのが印象的。

ここで、何時だったかいな。1時くらいだったかいな。
次の日が朝イチで打ち合わせが入っていたのと、ちょっとしょんぼりから立ち直れず撤退。


完全にそれはこっちの独りよがりな期待なので、誰が悪いかといえば自分が悪いのですが。

ちょっと残念だったのは、継承の問題などから「大元信仰」として大切な舞があまり見られなかったこと。それを楽しみにしていたので。だから、大原の方がアタリ。むむう…

最初から村祭りにお邪魔しましょう、という気持ちで行ってきたら、もっと素直に楽しめたかもですね。団長さんもなんだか茶目っ気があるというか、かわいげのある方でしたし。4年に一度の祭りを一生懸命務めておられるのは伝わる。
古老が伝える前になくなられたのは、本当に残念です。
次の式年はどうなっているんだろう。

だから、舞う機会や回数は重要なんだなあ。

その点においても、日貫の合同式年祭は、私は、合理的というか、持続力が高いと思うのです。ひとつの地域に5つでしたっけ?の団体がひしめき合ってる強みというか。
というのも、これから先どう考えたって人は少なくなる。祭りを執り行うのがどんどんいたしくなるでしょう。
合同で、それぞれ役割分担して舞っていれば、古老がなくなられたときの演目存続危機が分散される。それに、将来的に個々の団体が立ち行かなくなったときも、合併すれば一応なんとか持ちこたえられる可能性も高くなりますよね。多分。考えていることを正確に言い表せなくてもどかしいのですが。



あと師匠から、あくまでも仮説としての話だけど、自分のなかでいわれて腑に落ちた感じがしたのは、あの姿が、神職の手を離れた神楽の姿なんじゃないかなあ、ということ。
氏子が楽しむ姿を見て神は喜ぶだろう、神賑わいになるだろう、といった神楽観の最たる。
だから「校訂 石見神楽台本」が生まれたんじゃないかなあって。
素朴で、ちょっと雑で、でもみんなが笑顔。だけど、あくまでも神楽は神楽。神楽を後世に残すために、あえて、もう一度神楽歌や口上を整理することが必要だと思ったのではないのでしょうか。
口伝の限界も感じていたのかもしれない。

あと幕間の話を聞いていると、担い手の本人達がこの演目がなんたるやをよくわかっていないという、ちょっと危うさがあって。整理して、道理というか、演目を構成している大切なキーワードを記録する必要性というか、伝え残しておきたい、忘れられたくない、って気持ちもあったのかなとか。

いとおしくも、ちょっと切ない。
うまく言えないけどいろんな気持ちがない交ぜになってしまうよ。
整理するなかで消えていったものもあるだろうし、整理しなかったがゆえに残らなかったものもあるだろうし、どうあがいたって昔と今、これからの神楽は同じではないし。


記録だけではダメだし、口伝だけもダメだし。
どっちも大事。
古老や師の言葉も大事。魂を継ぐ。


やっぱり、舞わなきゃ残せないしねえ。