舞ひあそぶ

神楽のこととか、備忘録の掃き溜め。

ギシとマア

師匠に神楽に出てくる兄貴分、弟分の表現についてなるほど!となったことがあるので、メモなど。

なんで同じ兄弟なのに、「日本武尊」は兄ぎし弟ぎし、「八十神」では兄まあ弟まあなのかなあーと思っていまして。

推察だけれど、という前置きがあって、蝦夷が転訛してエギシと呼ばれ、エギシ、オトギシになったのでは、と。
エミシ→エビス→エビシ→エギシみたいな?
私にはまだこっちの地域での転訛の法則とかわからんので、こっちで生きている師匠がそうっていえば、ほほうそうかあとなるんですが。
出雲の方も、イとウの音が非常に曖昧なので、全くあり得ないとは言えないんじゃないかなあとか思ったりして。

駿河の地も都からみれば東国、蝦夷の地。
エギシへの転訛があったなら、兄エギシ、弟エギシから口伝の過程でエが吸収されたのかなーってかんじ。


たいして「八十神」。
いわれたのは、口上のなかに「継兄(ままあに)弟(おとと)なり」とあり、それが訛って兄まあ、弟まあとなったと推察しています、と。

ままあに(古語ではまませとも)のママとアニの順番がどこで入れ違ったのかは皆目見当つかずですが、全く不自然なこじつけでもないのではないでしょうか。

ただ、もし、この仮定がまるっきりの大嘘でなければ、「ギシ」も「マア」もある立場を表す記号ということなので、「日本武尊」において、兄まあ弟まあはなり得ない。ヤマトタケルの継兄弟ではないから。同じように「八十神」で兄ぎし弟ぎしはおかしい。八十神はどうやったって蝦夷ではないから。


これちゃんと論拠示そうと思ったら言語学と統計調査みたいになるのでしょうか。


結局のところ思うのは、何気なく疑問に感じるのはヨソモノだからなのかもしれない。でも、それに推察ながら答えを聞いたとき、ハハアなるほど、となるのは、実際にその土地で育ったものから、なのですねえ
いくら情熱的に調査研究をされとっても、実際に土地に生きるひとには勝てません


ただ、土地のひとの言葉がすべてかと言えばそれも違って、鵜呑みにするのは、ちょっと危ない。主観だから。