舞ひあそぶ

神楽のこととか、日常のこととか。

神能あたりもろもろ いち

寒波のおかげで、久々に早めに帰れて、洗濯と炊事してもなお22時前に布団に潜り込める幸せを噛み締めている次第。
しかし、布団に入っているのに寒くて震えておる。うぶぶぶぶ

雪はこの前のに比べれば余裕のヘエさんなんですけど、完全にお凍りなすっています。
ワイパー動かしていないと凍ってくっつく。

あーさぶぶ
いろいろモヤモヤする。


えっと、昨日の話の続きでもしましょうかね。

なんか、今週に入ってからくらいから、急にアクセス増えて、あんまり気乗りせんのんですけどね。増えると、いろんな思惑が生じて、クソ面倒。


まず、佐陀神能について、写真集などでの概要をざっくりまとめると、
16世紀末から17世紀初頭、うんと、神楽を舞う役職の人っぽいんですけど、その当時の弊主祝へいぬしのはふりさんが、神職の裁許状をもらいに都へのぼり、猿楽能の所作を学んで帰った、という記録が残っている、とのこと。
島根、秋鹿、楯縫、意宇郡西部の神主と巫女によって執り行われていたものの、神職演舞禁止令により、氏子の手へとわたった。
9月の御座替祭で、取り替えをするその晩に「七座」の神事を奉納。翌日の夜、例祭の夜に「式三番」「神能」を奉納。

「神能」は、江戸時代初頭、だから17世紀の早いところですね、に大成し、当時、猿楽大夫がいたという記録もあるとのこと。

「七座」「式三番」「神能」の"形式"が、多くの里神楽に影響を与えたとされる。ということなので、この"形式"を今でも変えずに伝えていることから、国の文化財ユネスコ登録となった、という解釈でしょうか。

「七座」の神事とは、「剣舞」「散供」「清目」「御座」「勧請」「八乙女」「手草」の7つ。「八乙女」は今はないということですが、多分これのために、巫女も舞手を担っていたということなのでしょう。江戸時代にはこれプラス「祝詞」。神職から氏子へ代わる過程で、なくなったということ。

多分ですけど、石見でいえば「四剣」「塩祓」「茣蓙舞」「神迎」「四神」「榊舞」辺りが対応するのではないでしょうか。
東の亀さんでやる「悪切り」とかもこれ系なんじゃないかなあ。
益田のほうで見た「剣舞」だっけ?口に加えて両手で持ってクルクル回るやつは、なんかちょっと舞ぶりというか、毛色がちょっと違うのでよくわからないけど、存在意義的には同じなのだと思います。

※師匠より、さださんは「剣舞」で剣を持って舞うけど、それは出雲山間部では「八ツ花」とのこと。ちょっとまた「剣舞」については考察の余地あり。


「式三番」は例祭の夜の奉納。「翁」「千歳」「三番叟」
いまの能で見るのと同様、ストーリーなどはなく、めでたい詞がいっぱいならんだ口上をもつもの。
天蓋やなげし飾りはつけない。

「神能」は、筋立てや囃子の構成が能の形式。そしてそれが、出雲地方独特のものといえる、とのこと。
あにゃ、写真集では「出雲流神楽の源流」ではなく「出雲神楽の源流」ってなってますね。
演目は「大社」「真切女」「恵比須」「八幡」「日本武」「磐戸」「三韓」「住吉」「荒神」「厳島」「武甕槌」「八重垣」の12こ。そのうち3,4演目を奉納。
いままでの感覚的なものや、写真集での内容から見るに、ベーシックなのは「大社」「日本武」「八重垣」。東の亀さんで「三韓」やるから、それもあるのかなあ。


ふうー。

まず、また今度調べんといけんのは、この大成に猿楽大夫の存在あり、というようなのだけれど、実は松江藩の文化としてもともと能というのがある、っぽいのよね。町民文化のほうだったか、忘れたけど。
本買ってあるのでまた時間つくって読まんと。
もともと、土壌として、能が根付いていた可能性はある。


ほいで、歴博の展示とも絡めていきますが。
あ、みみくさんは、立久恵を越えて三刀屋掛合と接しているあたり。地理難しいー

いまさださんでなくて、みみくさんにある「祝詞」は写真見る感じ、「天蓋」ぽい。
クモを上下させているところのそばで、祝詞を読み上げて神を勧請します。
あ、いま胴取りが勧請みたいなのするから、それが誰がそれをやるかが変わったみたいなかんじでしょうか。

ねむい。

でも、いまではその勧請のためでもあった天蓋がないというのも、かなりスパッと転換したのでしょうか。

あーーこれ一回じゃ無理だ
眠くなってきたし、一度ここでおわり、