舞ひあそぶ

神楽のこととか、日常のこととか。

消すかもしれないつぶやき

特定のワードでの引っ掛かりが増えて、私も引っ掛かるのですね。

結局のところ、ここは、師匠の言葉とか、教えとか、プラス自分の考えたこととか、もろもろの話し相手、メモがわりなので、幅広く共感や評価をされるための努力はしません。誰かに媚びるために書いているわけではない。
虚空に向かって投げる紙飛行機。誰かに届くかもしれないし届かないかもしれない。

まあ、書き方とかは気を付けんと、とは、改めて思うところではあるのだけれど。

しかしながら、ふとつ気を付けてることがあるのね。出雲弁かよ。ふたつ。
それは、ある程度、年齢が団子になっている辺りは、個人にあんまり触らない。

全てをバカ正直に書いているわけでは、ない。

あと、貶すことを目的とした嘘の流布はしない。

キャーししょーカッコイイーとか言っているぶんには、まあ、ししょーですからね。もともと、東京公演で、その舞を見て、ウオオオってなったのがスタートですから。

その衝撃がなければ、かめのふはしていないし、師もいない。石見神楽をせっせと見ていたかも、わからない。


ししょーだなんだは、まあ置いておいて、あんまり、役柄の向こう、面の向こうの人が見えすぎるのも、どうなんかなとも思います。面より我が勝っとるじゃん、と思ってしまう。

その人の肉体を使って立ち現れる何か、その、何かの気迫やなんかそういったものが、見る人の心をざわつかせる。

ああーいい舞台だった、とか、いい能だった、というふうに思うたときも、大体そうだったような気がします。
あの人だから泣ける、ではなくて、あの人から立ち現れる某に激しく揺さぶられて、泣ける。

そこに、舞台装置による視覚効果や、音響効果は、究極的には要らない。
むしろ邪魔にもなりうる。
あくまでも補助。


貴船の女に胸が刺さる思いを持ったのは、舞台効果や早変わりによるものではなくて。あの場に立ち現れる女の哀しさ、人の浅ましさを見るから。あるいは自分の心のなかに巣食う鬼を見るから、かもしれない。
じっと、誰もが静かに見つめる。
女を見ているし、女を見ながら己を見ている。
男を見ながら己を見ている。

だから、照明パチパチは気が散る、という話なんすわ。
お宮より舞台ばえする演目だとも思うんですが。ちょっと葛藤。

いつだったか、三宮さんで見たのが一番記憶に残っている気がするけど、そんなことあったかしら。あるか。
だいぶん前だったかなあ

あと貴船の時に、小中学生が何を思いながら見ているのかは気になるのですよね。ゲームながら見していた子も、ゲーム機閉じて、ジーっとしているから。ゲーム機閉じてくれるから眩しくなくて嬉しい。

浜田の子?石見の子?のあの器用さもおもしろい。
耳はちゃんと聞いてるんだもんね。良いタイミングで顔をあげて見る。


とりとめがなーなった。


まあだから、結論は、好きなことを好きなように書いてるってそれだけなんですけど。
他人は、見る自由、見ない自由があって当然。わざわざ見ようと思わないと見られないところにあるんだし。


てなことで。