舞ひあそぶ

神楽のこととか、備忘録の掃き溜め。

伝播とか

いろんな情報の整理的なあれそれですが。
大学時代に、大学図書館を駆使して集めた資料を、捨てずに持ってきた昔の自分を誉めたい。しかも整理していい子。ていうか、どんだけ暇人だったんじゃ。

また新しいファイルがいるなあ。

その当時は、今よりさらに地域について無知であったし、資料の中から得たい必要な情報しか見ていなかったから、見直すごとにほほーうこんなこと書いてあったっけってなりますが。


いまひとまず興味深いのは、浜田、というか那賀郡は、わりと幅広く、古い情報が落っこちているんですが、邑智郡は桜江の某宮司台頭以前は、矢上周辺のほうが落っこちているっぽいこと。
宮司は、大学で中央の民俗学者と出会い、繋がったのがすべての始まりでしょうね。

あと、神楽改正というか、明治の過渡期を知らん人たちが、わーにゃーいってるんだなーというのも見える化されて興味深いです。後世、すっかり確立されたものを見てのことだから、余計に心にもよもよした思いがあったのかな、って。
くちぶりがね。
まだまだ掘り出し中。


しかし、当時の農民のパワーとは、いかばかりかと。
那賀郡では神職らがもうやだ!って匙を投げてしまったくらいの、良くも悪くも強い情熱がある。
たぶん、他の地域も大なり小なり。


あと
神楽において、宗教者というスタート地点だからある程度共通項あるのはそうなんだけど、演目とか詞章とか、ある程度独自発達していったにも関わらず、大きく外れることもまたなかったっぽいのが不思議。

口伝過程での誤伝誤写は生じていっても、改めるのに、ひとつひとつの継承団体が、全く違う詞章を持っていたわけではあんまりなさそうというか。
だから、神楽の詞章改正というものが可能だったのかなあって。
かつ、比較的受け入れやすかった。全く違うものではなかったから。だから広く伝わることが可能だった。
自分達が持っているのとあまりにも差異があったら、受け入れにくいかも。


江戸末期から明治初期は、次から次へと差異を受け入れることが求められた時代なんだなあと。