舞ひあそぶ

神楽のこととか、備忘録の掃き溜め。

きほんのき

師匠から聞いた話で、ふむふむと思ったことメモ。
ながら聞きだったので、一言一句ではないけど。

石見神楽において、絶対におさえるべき基本的な所作、心構えがある。
でも、特に能舞については、その基本をおさえた上で、舞子の感性によって成り立つものでもある。
しかし、その感性の部分というのも、基本ができていなければ成り立たないし、舞子の感性によって基本そのものを変えるのは、それは、もはや石見神楽ではない神楽もどき。

だから、師や古老から教えられる、基本が大事。
所作も、心構えも。

あーなるほどなあ、と思ったのは、能や狂言は、あらゆる動作が「型」として決められていると思っていて、その上で、個性として出るのは、多分「型」が身に付いた上で滲み出る、その人自身。声音や、癖、その人の解釈によって乗せられる感情だと思うのね。


石見神楽の能舞は、それらに加えて、個性として出せる余白がひろい。

師匠の推測では、そうなったのは、恐らくというかほぼ確実に、かつて石見神楽に猿楽能を取り入れようとした某かは、実際習い覚えた訳ではなく、見て覚えて持ち帰ったから、決まり事の制約が緩かったのだろうと。
その説は、私も納得できるなって思います。

でも、その余白でいかに魅せるかは、その人の基本の習熟度、忠実度によるのではないかしら。

いち舞子が基本を変えるのは、おかしいでしょ!基本なのに!みたいな話になって、ああそりゃそうだ、と思いましたのですよ。
基本を変えて然るべきといえるほど、あなたは石見神楽を極めたのですか。数多の先達を凌駕したのですか。って話ですわね。

基本的な所作を変えようとすれば、そこの見せ欲に意識が行くから、逆に神楽がおざなりになる。舞なんかは、顕著ですよね。
テンポがずれたり、手元が狂ったり、足元が危うかったり。
不思議なことに、どれだけ神楽歴が長かろうと、基本や基礎がしっかりとできていなくて、ちょっと心もとない新人の舞と似てくる。

楽も、自分が一生懸命になるから、一人で走る。

ようは、舞いあそべてないんでしょうね。


我ながら、なんや偉そーに!と思うけど、傍目で見ててそう。

見てる方も、意識が散漫になって、集中できない。気持ちよく楽しめない。

よって、最近は一回の神楽全体で、むふー!うまうま、という満足度がなかなか得られません。
演目ごとに、あるいはシーンごとに、うまうま、して補充する感じ。うまうま、オオゥ…、うまうま、オオゥ…、オオゥ…、う、うまうま…?みたいな。起伏が多くて疲れますね。

それとも自分が今おかれている環境ゆえなのか?

ううーむ…


まあ、基本は大事ですよね、だから、基本なんだし。