舞ひあそぶ

神楽のこととか、備忘録の掃き溜め。

式年考


ここ最近、なんかもろもろ巻き込まれて、悶々と石見神楽と大元神楽についてひたすら悶々考えているんですけれども。
基本的には師匠や研究者の言葉が真理なんですけど、ようやく自分の中で、納得のいく言葉が出たのであります。

大元神楽」というものについて、それが何を表すのか、ある一部地域については特に、非常に意見が割れるところなのでありましょうが。

結局のところ、やっぱり「大元神楽」という呼び方は、あくまでも式年祭の神楽や祭儀、その一日だか二日だかの行程をまとめて指す言葉だったのでしょう。
特定の団体や、神楽舞、あるいは神事、を指すのではない。その「日」、その「祭」を表す言葉。

良い例えなのかわからないけど、夏至に行われる神楽や茅の輪くぐりとかをまとめて「夏越祭」「夏越の祓」とかというような、そういう呼称。

だから、浜田ほか主に沿岸部地域は、式年祭で祭儀ができなくなったから、その「日」の行程を十分に行えなくなった、「大元神楽」を執り行えなくなったから、自然と、その呼び方は廃れたのではないでしょうか。
残ったのは、「神楽」。神楽は、残った。
もともと、原井組地域は、邑智郡と違って、例祭とか厄徐祭みたいなのでも神楽はしていた歴史があるので、そういう意味で、ちょっと特別な神楽の日になった、みたいな感じなのではないでしょうか。


ただのその土地土地で、「神楽」として、行われるにすぎなかった神楽が、たぶん私の予想では大阪万博あたりがターニングポイントだったろうと思うのですけど、地域外へ出ることになった。
他者の目にさらされることで、アイデンティティを求められるようになった。

そこで。

私たちは、石見国に生きるものとして、石見国で生まれた神楽を舞っている。そういったじげの誇りをもって、「石見神楽」と呼ぶようになったのではないでしょうか。
そこに、舞ぶりや囃子の違いの区別はなく、石見に生きるものとして、石見で生まれ育まれた神楽として、「石見神楽」と。

だから、邑南のひとも、わしらは石見神楽だと。
確かに広島の文化を取り入れているところもあるが、わしらは石見神楽だと。あれも石見からいったものだと。



そもそも、いまでこそ、「式年祭」と呼ぶけど、その呼び方は学術的な呼び方で、あとから呼ばれるようになったのだと思います。
もともと隔年で行われるその祭を「大元神楽」と呼んでいて、それを後世民俗学の普及にともなって「式年祭」とひもづけられ、そう呼ぶようになったのではないかと。あるいは、いまの保存会という固有名詞と区別、価値の底上げを図るために、という意図も、もしかしたらあったのかもしれない。

ようは「大元神楽」は「式年祭」を表すローカルネームであって、それ以上もそれ以下でもなかったところに、「式年祭」という中央的な呼び方や概念が入ったから、様々な誤解や混乱を与え、今日に至るのではないでしょうか。


というのを考えながら、図書館で式内社についての本を読んでいたら、石見町の大原神社のところで「七年毎に大元神楽を行ふ」とあったので、あながち間違いじゃないんだろうな、と鼻息荒く帰ってきたのであります。

どうも「大元神楽」を行う、式内社ってここだけなのよね。

あと、式内社の顔ぶれってなんか神楽的にはあまり聞かない面々なのでそれも気になるところ。