舞ひあそぶ

神楽のこととか、備忘録の掃き溜め。

このあたりのもの

子ども神楽の「恵比須」。
私は、あの恵比須が好き。

恵比須で教えてもらうことはあまりなかったので、色々教えてもらう機会になって良かったであります。


フツーの(たまに服装奇抜だけど)、その辺りにいる人たちが、慣れた手つきで着付けて別の某になっていくのを見るのが、私は好き。
神になったり鬼になったり、はたまた、白衣に袴姿になったり。
その個人と某への行き来を見るのがなんか好き。
って、結局凝視してる。

そういえば一度だけ、友達のお父さんが、能装束の着付けるところを見せてくれたけど、ずれないようにとぶっとい針でしつけ糸かけていたのです。
ブッツと音を立てながら縫い付けるのに衝撃を受けたけど、そういえば神楽衣装では無さそうですね。

それとも女の装束だったからかな?

でも、それによってあの独特な色っぽさというか、蕾のような?形になるんだなあ、と納得した覚えがある。


浜田に来て、8ヶ月くらいでしょうか。
松江にいたときから変わらず、土地のもの、土の人になりたくて、でも実際の立場での私や、求められるのは風の人としての私であったりして、そも私とはなんじゃいな、という気持ちは、常にあるわけです。

そのなかで、特にこの数ヶ月で小さい事柄ではあるけど、師匠の代弁をする機会があきらかに増えて。
うーんうーんと考えて、言葉を捻り出して、師匠にホイッと投げてみたら、そのとおりだ、と言ってもらえることも、かなり増えた。

それって、なんでかな?と考えてみたとき。
このあたりのもの、として長く生きてきた師匠と同じ土地に暮らし、多少なり同じものを見聞きし、同じことに問題意識を持ち立ち向かえるようになったからなのでしょう。物理的にも。
やっと、私も、このあたりのもの、になりつつあるのかな。

良いことばかりではなく、むしろ汚ねぇぇって思うことやクソがぁぁぁと思うことの方が多い。問題が多い。
なんとなく生きていれば、あるいは長いものに巻かれて生きていれば、もう少し生きやすいんだろうとも思いますけれども。

まあ師匠が長いものに巻かれないので、一緒に短いので一生懸命巻き巻き、時にビリビリ破きながらいくんでしょう。

私も、このあたりのもの、になりたいのです。

のう

ゆっパ定期公演で市職。
「八幡」「恵比須」「天神」「大蛇」で師匠が大体囃子におられたのでムッホムッホしてましたけど、「恵比須」がなんかとっても良くて、大満足だったのであります。
上品で、丁寧で、人柄(神だけど)の良さが感じられるというか。お子さまファーストだし
あと、日本記録の大鯛が出てきて大ウケ。面白かった。

あと個人的に「八幡」も好きかなー
鬼ちゃんが、ちょっとヒステリックさあるのが、般若面にしっくり来る。

ふと、「神能」って、もしかして、神楽能じゃあなくて、「神能(かみのう)」から来ているのかしら?と思ったのであります。

「神能(かみのう)」というのは、能の演目のうち、神がシテとして出てくる脇能?で、「翁」の次におかれるものとのこと。

高砂」や「老松」という、なんか縁起いい系が多いんですかね。まあ初めだし。

神楽の演目との共通項はないけど、里神楽といいますか、石見神楽や出雲神楽とかの能舞の演目は神がシテになるようなのだよなあーって。

あと「御神能(ごしんのう)」と呼ぶときは、神社の能舞台能楽を奉納するときみたい。
宇佐や厳島など。

うーーんそっち説も考えられる…

どっちにしたって、たまーに使われる気がする「神楽能」はちとおかしいわね。改めて思うと。
「神楽」と「能」と二つがくっついているわけですからね。あくまでも神楽は神楽だし能は能。
神楽歌舞伎とは言わんし。
神楽劇、はなんか言ってる人いたりしそうだけど、ありません。そんなん言いません。言わないでください。

となると、神能であったり、うーーーん個人的には好みではないけど神楽舞もありなのか?
でも祭りとしての「神楽」のなかの「舞」なんだろうけど、神楽そのものが舞を伴わないと成り立たないような気もするのでやっぱり変な気もする?

神楽歌に対応して神楽舞なのか?

じゃあ能舞という言い方はどうなのか?と考えたときに、「能」様(よう)の「舞」なのかなと思ったり。このときの「舞」というのは、所作もそうだけど演目の構成とか神楽の演目を指すイメージ。祭りとしての「神楽」というより、単体の神楽。

はあー難しい


実際どういう言い方が正解なのやら、よくわかりませんけども。

面とか点とか

そういえば、ゆくとしくるとしで虎舞出ましたな。
同じ町内の団体を芸能祭りで見ているので、同じ町内でも、生き残った虎、流されてしまった虎、地区によっては、虎は残っても支える人がいなくなってしまったところ、様々なのだろうと改めて思ったのです。
復活してくれてありがとう。ありがとう。

奉納舞でしたので、人ではなく神に向かって舞っていましたね。

あの、獅子舞の変化形でもなく、権現でもなく、善も悪もなくあくまでも虎であるところがいい。ただただ、虎。
なんか、お腹見せてゴロゴロしたり、小虎と戯れたりするのもあったと思うけどな。



今まで漠然と、ごく一部の地域が「石見神楽のルーツ」であるような認識がそこここにあるのが疑問であったわけです。

おおもとがルーツ、という論点に平行して、暗黙の了解的にその"一部地域の"おおもとがルーツ、みたいな空気感。

書籍とか資料を見とって、明らかにそこまで濃厚に漂わすのは、ごく一部地域関係以外では多くないし、そもそもその"一部地域のおおもと"がルーツであることの学術的根拠といいますか、そのきっかけとなるような資料が見当たらないのに、どうもその空気感があるのが不思議でしたのです。
とりあえず正統なものを見たくばあそこに行っておけ、的な?

しかも、ごく一部地域以外では、中央側からそういう空気が漂ってくる、気がする。


ほいで、マッピングをしていて気がついたのですよ。

なんかしらの指定を受けた文化財マッピングしていったときに、9割9分は単体の団体が、その舞や演目や面やら衣装やらやらの指定を受けた格好になるので、単体の団体の代表者やお宮が、地図上の「点」として表されるわけです。
それ以外の文化財も大体、所持者や所蔵地、所在地が「点」になる。

おおもとは、邑智郡のおおもとの保存会事務局所在地が「点」になるのです。

何が言いたいかといえば、保存会加入団体は邑智郡部と江津の一部地域にバラッとおられるので、文化財自体は、わりと広範囲に渡って展開される「面」なんですよね。
でもその「面」を、文化財指定名で「点」にして表すとき、それは、ある一点"だけ"を指すわけです。事務局がそこにあるから。

極端な言い方かもですが、例えていうなら、「石見神楽」という「面」を、地図上では、浜田の協議会会長の住所に「点」を打って表すようなものでしょう。


個々の加入団体を見渡したときに、あらっこんなにあちこちにあるのねえーとわかるけど、パッと地図を見たときに手に入る情報は、そこが、所在地であるということだけ。
つまり、メッカになるわけです。

しかも文化財のおおもと、としたときは、ほぼ邑智郡のそれを指しているし、地図上ではある一点しか表されない。
那賀郡のおおもとは、極端にいえば蚊帳の外。

ちなみに、師匠に教えてもらったけど、最後の神がかりは那賀郡だったようですね。


おおもとといえばその「点」が表されるから、おおもとがルーツです、という論とかぶさったとき、イコール、その一部地域のおおもとがルーツです、と。

偶然か故意か知らんけど、実は、資料的事実云々とかではなく。ご本人ら含め、みんなが勝手に誤解をする仕組みになっているんだなあーと、馬鹿正直に感想いえば、思ったのですよ。


その土地の実際を分かってる人からすれば、「面」なのに打つ場所おかしいで!って思うけど、知らん人にお知らせするための地図で、そこに「点」を打たれたら、知らん人は、ほーんそうなのねーここにあるのねー、って思うでしょう。だって、わかんないんだもん。知らんのんだもん。
得られる情報から推察するしかないんだもん。

だから、中央側は、資料研究がしやすい反面その仕掛けに引っ掛かりやすいと思うのです。
それは、私自身、卒論の時に感じたこと。
それでいて、中央の学者の方が、やっぱり発言力、影響力がある。
だからその空気感があっちから来てるだろうし、通説が根強い。


しかもね、文化財マッピングをしたときに「石見神楽」というのは、ひとっっっつも出てこない。だって、無いから。

ようするに、メッカの一人勝ちなのですよ。うまいね、こりゃ



マッピング自体は、大学の時も授業でやったし、松江の仕事でもたまにしていたし、わりと好きな作業の部類ではあるんですが。
地理院先生が優秀すぎてぶっとんだ。私的には、初心者でも扱える程度の応用機能が、ぐーぐる先生よりイケてると思う。これ前の仕事の時知りたかったな…
今度から地理院先生一択だな。


でも今までのマッピングも元々が「点」だったから気づかなかったことなのですけど。

全部を「点」として表すときりがない。
地図上が「点」だらけで、もうわやくちゃなるでしょう。
でも「面」を妥当なところで「点」に置き換えれば、スッキリまとまるけど、必ず、取りこぼしがあり、また誤解を生む可能性をはらんでいる。


だからこそ、今度は、「点」を打ったときに表される名前が重要になってくるのではないでしょうか。
慎重に考え、名付ける必要がある。

ちはやふる

納めの神事についてのめも
宮司さんの、いろいろみて勉強するのもいいが、もうある程度年数も重ねたのだから、自らの芸を研き精進するよう、というようなことおっしゃられたのが、またよかった。
ずうっと、見守っておられる宮司さんの言葉だからこそ、よりいっそう重みがある。


わからないながら祝詞を聞いていて、やっぱり神ごとだから、というのはあるけど、「ちはやふる」という言葉がめちゃめちゃ出る。

もちろん、「神楽」の歌にもある。


まだ調べ途中だけど
チ は荒々しい神であったり、自然界の生命力の強さを表す言葉。
ハヤ はタケハヤスサノオノミコトに象徴されるようにその勢いの激しさを表すみたいな。
ただ調べるなかでおもろいなと思ったのは、ハヤがつく神の中には祓えの象徴みたいな神もいるし、音を転換させてハエ、にしたとき、南風や岩礁、破壊を表す言葉にもなる。あと、関わり深げなサンスクリット語ではハヤは馬を表し、それも早・速を連想されるということ。
フル は、広範囲に及ぶこと、みたいな意味もあるそうですが、揺り動かす、神霊を移すというような意味を持つ。

神楽はタマフリの意味を持つ、というそれも、魂を奮い立たせる、揺り動かし力を沸き立たせる、みたいなニュアンス。

なんか自分でもよくわかんなくなってきたな

わかんないんですが。
ち・はや・ふる、という3つの単語で、
神々の荒々しい力が及ぶ
自然界の生命力は破壊的な強さでもって大地を揺り動かす
自然界の生命力の強さやそれに象徴される神々をここに移してきてその力で祓い清める
というような解釈ができるんじゃないでしょうか。

あと、動詞で、ちはやぶ・るというのがあるみたいですね。それが簡単に言うと荒々しく振る舞う猛々しく行う的な意味。

あとこれは、自分でも調べながらウーンこじつけ?とか思うけど、ちはや・ふるの2語もできなくはない。
巫女の装束の千早は、もともとは袖がなかったり襷的な用途のものだったりしますが、今は紙縒とかで袖を留めてあるようですね。
だから、巫女が千早の袖を振り、神楽を舞う、神を慰めるという情景も含んでるのかな、とか。あんまり石見では巫女舞は見ない気がするし、「神楽」は神職舞の流れから男が舞うけど。

また、巫女で言えば、神が依り移る、という役割もあるから、千早を着るものに神が依り移る、的な解釈もちと無理すれば通るかしら?

言葉の沼地にはまってきた


なによりも、夜のお宮って、周りよりぽっかりと暗くて、少し怖いような、さみしい気持ちになるけど、ぽうっと斎灯が灯ると、なんとなく優しいような、暖かいような、受け入れてもらえるような、そんな空気感に変わるのが不思議。
人の気配があるおうちに帰ってきたような、ほっとする明かり。
神楽のある夜は、だからいい。

あと、本殿のなかに式年の大元祭りに際して奉納された大提灯があった。

式年考


ここ最近、なんかもろもろ巻き込まれて、悶々と石見神楽と大元神楽についてひたすら悶々考えているんですけれども。
基本的には師匠や研究者の言葉が真理なんですけど、ようやく自分の中で、納得のいく言葉が出たのであります。

大元神楽」というものについて、それが何を表すのか、ある一部地域については特に、非常に意見が割れるところなのでありましょうが。

結局のところ、やっぱり「大元神楽」という呼び方は、あくまでも式年祭の神楽や祭儀、その一日だか二日だかの行程をまとめて指す言葉だったのでしょう。
特定の団体や、神楽舞、あるいは神事、を指すのではない。その「日」、その「祭」を表す言葉。

良い例えなのかわからないけど、夏至に行われる神楽や茅の輪くぐりとかをまとめて「夏越祭」「夏越の祓」とかというような、そういう呼称。

だから、浜田ほか主に沿岸部地域は、式年祭で祭儀ができなくなったから、その「日」の行程を十分に行えなくなった、「大元神楽」を執り行えなくなったから、自然と、その呼び方は廃れたのではないでしょうか。
残ったのは、「神楽」。神楽は、残った。
もともと、原井組地域は、邑智郡と違って、例祭とか厄徐祭みたいなのでも神楽はしていた歴史があるので、そういう意味で、ちょっと特別な神楽の日になった、みたいな感じなのではないでしょうか。


ただのその土地土地で、「神楽」として、行われるにすぎなかった神楽が、たぶん私の予想では大阪万博あたりがターニングポイントだったろうと思うのですけど、地域外へ出ることになった。
他者の目にさらされることで、アイデンティティを求められるようになった。

そこで。

私たちは、石見国に生きるものとして、石見国で生まれた神楽を舞っている。そういったじげの誇りをもって、「石見神楽」と呼ぶようになったのではないでしょうか。
そこに、舞ぶりや囃子の違いの区別はなく、石見に生きるものとして、石見で生まれ育まれた神楽として、「石見神楽」と。

だから、邑南のひとも、わしらは石見神楽だと。
確かに広島の文化を取り入れているところもあるが、わしらは石見神楽だと。あれも石見からいったものだと。



そもそも、いまでこそ、「式年祭」と呼ぶけど、その呼び方は学術的な呼び方で、あとから呼ばれるようになったのだと思います。
もともと隔年で行われるその祭を「大元神楽」と呼んでいて、それを後世民俗学の普及にともなって「式年祭」とひもづけられ、そう呼ぶようになったのではないかと。あるいは、いまの保存会という固有名詞と区別、価値の底上げを図るために、という意図も、もしかしたらあったのかもしれない。

ようは「大元神楽」は「式年祭」を表すローカルネームであって、それ以上もそれ以下でもなかったところに、「式年祭」という中央的な呼び方や概念が入ったから、様々な誤解や混乱を与え、今日に至るのではないでしょうか。


というのを考えながら、図書館で式内社についての本を読んでいたら、石見町の大原神社のところで「七年毎に大元神楽を行ふ」とあったので、あながち間違いじゃないんだろうな、と鼻息荒く帰ってきたのであります。

どうも「大元神楽」を行う、式内社ってここだけなのよね。

あと、式内社の顔ぶれってなんか神楽的にはあまり聞かない面々なのでそれも気になるところ。

きほんのき

師匠から聞いた話で、ふむふむと思ったことメモ。
ながら聞きだったので、一言一句ではないけど。

石見神楽において、絶対におさえるべき基本的な所作、心構えがある。
でも、特に能舞については、その基本をおさえた上で、舞子の感性によって成り立つものでもある。
しかし、その感性の部分というのも、基本ができていなければ成り立たないし、舞子の感性によって基本そのものを変えるのは、それは、もはや石見神楽ではない神楽もどき。

だから、師や古老から教えられる、基本が大事。
所作も、心構えも。

あーなるほどなあ、と思ったのは、能や狂言は、あらゆる動作が「型」として決められていると思っていて、その上で、個性として出るのは、多分「型」が身に付いた上で滲み出る、その人自身。声音や、癖、その人の解釈によって乗せられる感情だと思うのね。


石見神楽の能舞は、それらに加えて、個性として出せる余白がひろい。

師匠の推測では、そうなったのは、恐らくというかほぼ確実に、かつて石見神楽に猿楽能を取り入れようとした某かは、実際習い覚えた訳ではなく、見て覚えて持ち帰ったから、決まり事の制約が緩かったのだろうと。
その説は、私も納得できるなって思います。

でも、その余白でいかに魅せるかは、その人の基本の習熟度、忠実度によるのではないかしら。

いち舞子が基本を変えるのは、おかしいでしょ!基本なのに!みたいな話になって、ああそりゃそうだ、と思いましたのですよ。
基本を変えて然るべきといえるほど、あなたは石見神楽を極めたのですか。数多の先達を凌駕したのですか。って話ですわね。

基本的な所作を変えようとすれば、そこの見せ欲に意識が行くから、逆に神楽がおざなりになる。舞なんかは、顕著ですよね。
テンポがずれたり、手元が狂ったり、足元が危うかったり。
不思議なことに、どれだけ神楽歴が長かろうと、基本や基礎がしっかりとできていなくて、ちょっと心もとない新人の舞と似てくる。

楽も、自分が一生懸命になるから、一人で走る。

ようは、舞いあそべてないんでしょうね。


我ながら、なんや偉そーに!と思うけど、傍目で見ててそう。

見てる方も、意識が散漫になって、集中できない。気持ちよく楽しめない。

よって、最近は一回の神楽全体で、むふー!うまうま、という満足度がなかなか得られません。
演目ごとに、あるいはシーンごとに、うまうま、して補充する感じ。うまうま、オオゥ…、うまうま、オオゥ…、オオゥ…、う、うまうま…?みたいな。起伏が多くて疲れますね。

それとも自分が今おかれている環境ゆえなのか?

ううーむ…


まあ、基本は大事ですよね、だから、基本なんだし。

あにぎし

最近はまた別の古文書類をちまちま眺めつすがめつしていて、頭のなかワヤワヤしてますが、師匠がスゲーと思ったのでちょっと自慢したい。

しばらく前に師匠が「日本武尊」の兄ぎし弟ぎしは、エミシがエギシに訛って、演目上兄と弟になったのでは?といっておられて、そのときはフンフン聞いていたんですね。
たぶんここでも書いたかもだけど。

で、いつの何だったか、もう布団のなかに入っちゃったので不確かなのですけど、昭和初期かそれ以前の、たしか那賀郡のある地域の台本で「日本武尊」のなかに、『エギシ』とありましてね。

そのときは、ほーんで別の演目の調べものしとったので兄ぎし弟ぎしの二人いるのかとか細かいことは見ていませんが、家に帰ってからジワジワあれ、師匠が言っとったじゃん、って気がついて、師匠スゲー!!!と思ったのであります。