吸う吐く
なんか、また久しぶりになってしまいました
一年、神楽を見られんかったけ
冬服もまるっきり手元にないけ
先々週ようやく一人での遠出に許可が出たので、おっかなびっくり帰郷
飛行機と新幹線はまだだめだから、寝台で。
久しぶりに、肺一杯に吸って、吐く感覚。
どうしてこんなことになってしまったのかとか、この一年糞みたいで何してたんだろうとか、ぐじゃぐじゃのままだけど、久しぶりに慣れ親しんだ胴の音や空気の震えがからだにすうっと馴染んで吸収されていくようで気持ちがいい
といっても、たぶん、服用必須が前提のコンディションなんだけど
悩んでたけど帰れてよかった
マツリの基本型
『日本の聖と賤』という本を読んでる
わかるといえばわかるけど、わからないといえばわからない。むずかしい
マツリの基本型として巫術(シャーマニズムの儀礼)がのこっているというはなしで
「神憑りは、だんだんクルウ状態になって激しい身体表現」をともなう
「この神遊びが、その場にふさわしい状況をより効果的につくりだすためには、どうしても歌舞音曲は欠くことができない」
「ハヤシ(囃)というのは、クルウ状態になりつつあるシャーマンを、そのまわりを取りかこんでいる人たちがかけ声などをかけてその状態を加速させる」
そのトランス状態をクルウといい
神との交感儀礼を行い、託宣をカタリ、呪文をトナエルという
このマイ、オドリ、クルイ、カタリ、トナエルがマツリの基本型である、と、いうことらしい
これが村の防疫厄除などのマツリとして、村落に受け入れられていたけど、体制的社会においては人心を惑わすことを理由に、卑賤化されていく…というはなしに繋がっていくのだけど、これはとても納得がいくようなはなし。
なぜ人心を惑わすことを恐れたかといえば、それが「乱」となって、体制を脅かす可能性があるわけで。
だから、体制的社会や国家神道を進めていくにあたっては、やたらな神がカタリ、トナエたら困るってこと。
宮が掃除されておらず汚い、とかその程度ならかわいいもんだけど、米の出来不出来も内容によっては体制の脅威になりえる。また、なにか言われたら不都合な神々も歴史的にはおわすわけなので、まるごと引っくるめてやめさせた方が早い。
でも面白いのは、それでも人は歌舞音曲は捨てられなかったってことだし、やもすれば、神憑りはしなくても、トランス状態にはなることがある
今でもそれは当てはまるように思う
でも、大事なのはあくまでも舞い踊るほうということがわかるのも面白い。
いまもかけ声という囃しも、楽という囃子もハヤシとしてあるわけだけど、それはあくまで舞人をトランス状態にさせ、「神遊び」の状況を作り出すことに意味があるので、そればっかりが走ればバランスが崩れる。
ひとつバランス崩れれば、神遊びにならないし、みんな気になってもっと崩れる
師匠がオーケストラ、というのはまさにもっともだとおもう
その形態というか…「マツリ」の姿が時代や場所によって人やモノを変えながら今なお続いているのは面白いかも
西から来るもの のつづき
これにはつづきがあって、
信仰が製鉄と共に西から東へ上ってきたからと言って、やっぱり神楽については、安直にそれだけで判断はできないとおもう。
それだけでいうと、弥生時代後期や古墳時代とかまで遡ってしまうだろうから、いくらなんでも現実的ではない。
となると、次に絡んでくるのは修験道
これは、大きいと思う
身近な例でいけば、大麻山神社とかその他もろもろ、たくさんある
これをもっと突き詰めようとすると、お寺まで調べないといけないから、ちとたいぎ
『石見国神社記』を長し見た限り、多陀寺もたしかそうだったかな?寺内社という意味なのだろうけど
きりがない
でもなかでも、熊野権現は大きいんじゃないかと思う
いっぽうで、白山は予想に反して、少なくとも神社ベースでは痕跡が追いにくい
もしかしたら摂社末社あたりを見逃しているかもだけど、とりたてて大きいものではなさそう。
だから「生まれ清まり」の思想はどちらかというと熊野信仰からくるものなのではないかなと
山のあり方とか、勢力とか、もろもろ含めて。
だからといって密教系寺院が多いわけではないと思うけど…
お葬式的な観点でいえばそれもそうかなと、なんとなく
ただ、よくわかんないけど、ここらへんの神楽は、修験色は当然ありながらも、それだけではない、と思う。
まあ八調子は当然として…六調子を見ても、なんとなく感触として、法印神楽ではない気がする。
県境越えて西とか南のほう行けばまた変わるけど、とりあえず当地についてに限定すれば、そう言って良いと思う。
ということは、今度は「神道」が関わってくるのか?
あと、四国からのヒト・信仰の流入も無視できないところではある。
……というところでとりあえずストップ
ぐっと時代は下がって、石見銀山街道筋とかも視野に入れて良いのかなと思ってはみたけど、当然のことながら何回も中継・交代を経て大坂だったかな?に納めてるので、いまいちピンと来ない。
その感覚で言うなら、たぶんもう少し前の戦国武将あたりからの流れを見た方がいい気がしてる。
でも戦国時代は何回読んでもワケわからん
京極尼子毛利??
でもやっぱり陸路より海路じゃないかなあ。
そうなると、西も東も瀬戸内も圏内にはいる。
それと、神社については、明治時代に入ってからご祭神が整理されたところも多いそうだから、それも留意しておかないといけない。
「なにか」を祀っていた、ことは事実でも、規格に当てはめて整理されたのはことのほか最近のことだということに驚く。
そのうちの多くは祖先神系なのではないかと思うけど…
でも、それをそこで祀ることに理由があったのはたしかなんだろうな
オチはない。進行形で考えていることだから
いっそ古文書研究が豊富で進んでたり、先行文献が出揃ってたりするところのほうが楽なのになあって感じ。
どうせそうなると私なんか、独自の新説なんか考えられんけど、少なくとも調べてわかる欲求は満たされるのに。
西から来るもの
なんとなくぼんやり不快感があったり、めまいと言えるかわからないくらくら視点が定まらない感じだったりで、パソコン仕事お休みしていたのだけど、神々についてもだいぶん勉強したからいよいよ石見国神社について整理を時々やってみる
あまりにもわやなので、とりあえず、神社の系統だては最低限に。
シンプルに厳島神社-イチキシマヒメとなるならいいけど、ならんもんのほうがおおい
大歳の神と大元の神をどうするかはまた考えることにして
ひとまず①スサノオと八王子とか、チームスサノオ、②主に大国主系のチーム出雲神話、③それ以外、チーム天孫、チーム地主もろもろフリースペース
加えて、今回は④チーム金属をご準備
チームたたらにするとちょっといさかいがあったり、銀があったり銅があったりもろもろね、加味したらチーム金属ということで
①チームスサノオは、基点をスサノオとして、イソタケルや、住吉大社のご祭神、宗像大社のご祭神みたいなウケヒとかでできた神々
漏れがあったら随時補足
高田先生の話を読む限り、出雲国では(余力があったらそのうちまとめるけど)チームスサノオが優勢のかんじの印象
出雲版ではオロチをチームスサノオにいれることになるかな。
②チーム出雲神話は、国津神系のなかでもオオクニヌシ(オオモノヌシも一応含む)、タケミナカタとコトシロヌシ
結局のところ、このチームの行く先をたどると、吉備とか丹後とか大和とか越とか見える化する君なので、比較対象要員
③チームその他は、たまにぽこっと天孫組が出てくる、あとはどなたかもわからない神もおられるので、引き続き要調査
もろもろのクッションだかフリースペースだかなあつかい
④チーム金属は、①~③チーム横断型で、ワシとオマエの仲だねってする要員
八幡さんは③チームその他「八幡神社」と④チーム金属『鉄』でニコイチ
銅山とか銀山はなあ…②チーム出雲神話「佐比売山神社」④チーム金属『銀山』でニコイチ
みたいなことを、延々とエクセルでやるわけです。
地名もとりあえず郵便番号順にツラーとならべて、一覧作って
全部作って段取りまではしたんだけど、チーム分けがなんと難しい
スサノオいうても娘息子は関係ないかといえばそうともいえず同じ一族組に属すものは一応整理したいし、そのためにはまた本読まんとだし
書き方はみんな違うし
あとからプーンと読んでて、あれ、あなた春日神ではないの、ってなったり。
うだらうだらしながらも、穴もまだ多いけれども、とりあえずチームスサノオ代表スサノオは○、一族は△みたいな感じであてはめていったらなんと、思ったよりスサノオ少ない!
ううーん大森と仁摩はおびただしいけど…
以下はたまーにちょびっちょびっとでてくる
でも、ありそうなところにちょびっと見えると、うれしい
推定町場や「出た」地区には今でも牛頭天王の名前や由来を残してるところがある。
※これつまり、既に牛頭天王=スサノオというのがすっかり身に付いてから勧請されたってことよね。
単に「スサノオ」にしてても、それは牛頭天王の習合を隠すために表の名をそうしたのか、朱砂の王として祭られていたのか、どんなゆかりなのか
思った以上に少ないというのが逆にオタク心刺激する
②チーム出雲神話は、オオクニヌシ=オオモノヌシにするかなど様々な問題を抱えつつも、あんまり考えても考える時間がもったいないくらい少ない、ごめん
そして、一番厄介で圧倒的数で買ったのは③チームその他
圧倒的勝利は「八幡神社」
稲荷神社も「鋳成り」につうじるので、ウカノミタマ?を祭神とするところはこちらでカウント
トヨウケヒメは勉強してから入れようか考える
薬飲んで足元に猫がいて、ここまでぼんやり書くの割りと難しかったんだけど、よーーするに
極めてシンプルに結論を出せば
石見は、宇佐の方から製鉄民がきて一番根付いた、のかなということ。
だから、ところどころ見られるスサノオや出雲の神々は、もちろんこちらにも手は伸ばしていたけどやっぱり「こっち」ではなかったんでしょうね
来た順番はわからんけど、最終的に成功したのは宇佐から来た「八幡神社」かな。宇佐の人々がもたらした製鉄の技術
もちろん「石清水八幡宮」から分祀されてるところもあるし、いろんな由来はあるのでしょうけど
出雲系の神、国つ神の製鉄法から、宇佐(大陸)の製鉄法へ変わったターニングポイントがどこかにあるのかもしれない。
てなると、周布氏の対馬を中継した大陸貿易は気になるなあ
あと、本当に不意打ちな感じで春日神系がいたりするのと、あと、たしか何社かポンッと社格があげられてるのもあるのよ。手が回るんならそれも調べたいけどなあ
ともかくとして。
ヒト・神・モノ・技術・信仰が西からズズズッときたとき、祭儀は伝授があると思うけどそれに伴う神楽とかはついてきたのかなあ
これが確定されれば、
たとえば出雲の神、国つ神系の古代祭祀は、下手したら弥生末期(3世紀末くらい)からはじまり、古墳時代くらいまでにあらかた平定されるわけだから、その前後で西の文化も入ってるはずなのよね。
あと、出雲は西をみない、みるのは東か南
対抗勢力が向こうにいるのがわかってるから?
うーん…眠くないけどなんか頭が少しずつシャットダウンされてきてるからとりあえずそほど
神社縁起とか翻刻版見ながらまた考えるしかないかな
そもそもわたしはなにについてかんがえてたんだっけ
菅公とか長浜刀とか
長浜刀は、周布氏が長州に行ってしまうまでの室町時代~戦国時代のあたりで作られたもので(1394~1595)、周布氏の大陸との貿易でも輸出物のなかに刀(出羽刀も含む?)についての記載があったらしい。
つまるところ、その時点では高度な製鉄技術と刀鍛冶(多分熱田神社はそれと関係がある)が、基盤を作っていたわけなので、そうなると、当然熊野信仰はそれより前にもう定着していたとも考えられる。
つまり熊野信仰に由来する芸能も伝わっていたとも考えられる。
あまり、こういうの覚えたりするの苦手なのだけど
周布氏は、益田兼定が周布郷の地頭になって「周布氏」となったようで、弟の兼直が「末元氏」、兼忠「丸茂氏」、兼政「多根氏」あと、誰だか忘れたけど来原氏もいるらしい。
なんとなーくだけど、たぶん、そこが要衝ってことなのか
あと、益田に拠点を移して益田氏と名乗る前は、浜田の御神本(上府・一宮の浜)に、居を構えた御神本氏。
御神本氏は、藤原国兼というひとが石見守を経て土着化してそうなったそうなのだけど、なんか諸説がありそうでややこしい。
とにかく、その説でいくと、藤原国兼の9世祖に藤原北家・藤原忠平がいる。
さらに辿って辿って辿れば、中臣鎌足まで行き着くということ。
まあ、ただ、自分の先祖を貴人に繋げて正当化というか、権威付けするのはよくあることなので、いろいろ厄介ではあるのだけど、もし本当に藤原忠平の家系の傍流となると、面白い。
というのも、藤原忠平の兄弟に、藤原時平(長男)がいるから。
時平死後、なんやかんやで家督を継いだのは忠平(四男)。
時平の遺志を継いで「延喜格式」を完成させたり、宇多天皇が皇女を降嫁させたり、平将門が若い頃家人として仕えたりしていたらしい。ネタの宝庫
宇多天皇が忠平に降嫁させた皇女というのは、一説では菅原道真女(むすめ)とも。
この女性から生まれた実頼が長男なのだけど、腹違いの次男・師輔が家督を継いで、後々の道長やらなんやらに続いていくことになる(はず)。
なんでそうなるのか、そこまで調べてないからよくわからないけど、師輔は北野天満宮を利用して実頼の子孫を呪ったらしい。
けど、なんで道真で道真の子孫を呪うのかよくわからない。
自分の方が血縁者より懇ろに供養してるぞ、的な?
ちなみに延喜格式の完成が927年だそうで、周布氏が拠点を置いたのは1223年くらいのようだから、少なくとも300年くらいの隔たりはあるとはいえ、もし本当に傍流だとしても藤原北家の流れを組んでいたなら、菅原道真を祀る理由はある。
もちろん、それだけじゃなくて、普通に天神信仰はあっただろうけど、周布氏の拠点周辺に天満宮があるから、なんとなく面白い。
春日神を祀っているところも所々にある。
春日神は、中臣連(鎌足)の祖神で、藤原氏の氏神。
武甕槌命、経津主命、天児屋根命、比売神と、若宮の天押雲根命
タケミカヅチとフツヌシはあとで祀るようになったらしいけど、春日神といったらこの4柱ないし5柱の神を指すらしい。
そう思うと、国つ神系統の神社が多いけど、要所要所で中央勢力の影は見え隠れするし、その理由は、やっぱりたたらなり銀山なりなんだろうなあと思わざるを得ない。
そうそう、それで、刀の話に戻れば、1850年代に鍋石でたたら経営と鍛冶をしていた江尾護國作の太刀があるらしい。
叔父で養父の江尾兼参が願主で天日隅宮(出雲大社)に奉納するために作刀されたらしいのだけど、この兼参は国学にも通じてたとのこと。
藤井宗雄は、どうもこの兼参とその父・兼愛に影響を受けて、平田篤胤の国学に傾注したらしい。
庄屋の三男坊だからいろいろ本を読んだりいろいろできたのかもしれない。
平田篤胤の国学となると、若干の過激思想も含んでいるんだけれども、そうすると浜田も廃仏毀釈がもしかしたら激しかったのか?
ああ、というか八調子の神道色は、そこからくるのかもしれない。
でもある程度の柔軟性というか許容力は感じられる。
とはいえ平田篤胤は本居宣長を尊敬していたそうだから、藤井宗雄は平田篤胤経由で本居宣長にたどり着いた可能性もある。
浜田は元々本居宣長との縁も深いし。
あと、本居宣長は生涯をとおしてたくさん歌を詠んでいたから、同じく歌を愛した藤井宗雄が影響受けたとしても、それは自然かもしれない。
あと、その太刀から察するに、つまり幕末くらいで出雲大社は杵築大社でもなく、天日隅宮と呼ばれていたのだろうか、と思うとそれも面白い。
これ以上藤井宗雄についてとか、辿ることができるんだろうか
○
何かの本を読んでいて「塩祓」が「四方祓」ではなく「塩祓」であったのではないかということを考える内容があったのだけど、それがなんだったか忘れてモヤモヤして眠れない。
明らかに記憶能力が落ちている
もちろん、最初から「四方祓」なんだから!というところについて、違うでえというつもりはない。証明も反証もできない限りそれはそれでいいと思う。そういう伝統だから。
でもよその神楽を指して「四方祓」が訛った結果「塩祓」に零落した、とは必ずしも言いがたい。
そもそも、「四方」よりも「五方」のほうが大事なはず。
師匠がそれは舞法の観点から立証できると言ってた。
私自身も実感として、「ではなぜ中央に踏みしめるのか」は疑問としてあったから、師匠が所作・道行きのなかに五方への拝みがあると言われたのは、納得がいく。
どの本を読んだのだったかはまた探したら書く。
あと、「生まれ清まり」について書いたけど、五来重の本読んでいたら、白山よりも前に修験の覇者であった熊野信仰に由来するというような内容があって、やっぱり思ったより複雑だと思ってくじけ気味。
とりあえず初見で理解したのは、熊野信仰が、イザナミノミコトの葬送地という謂れや補陀落浄土とかの信仰にも結び付いたり、水葬?の文化があったり、様々な要素を含んで「死者の山」であることは、本を読んでて共通することなのだけれど、その参詣の信仰や形態が「生まれ清まり」を表している、ということかな。
あと、熊野の別当?(管理者的な家)の系譜と、源平の合戦、南北朝の争いが繋がっていて、さらに天竜川沿い、まさしく奥三河の花祭伝承地域も関係してくる。
だから、熊野と花祭は関係性があるのかもしれない。
あと熊野修験が覇者となり、全国各地に影響を及ぼした、というのも、修験者は勤行?というだけではなく、鉱脈探しという理由で山々を駆け巡った、という風にも考えられているそうなので、なるほどそういうことで全国各地に熊野信仰が見られるのか、と、それも納得がいく。
そして、南北朝時代に南朝側についたことで、一時衰退したらしいことと、衰退した理由の一つに本では「富を集めすぎた」というような趣旨の記述があって、それもあらかたの鉱脈を掌握していた、と考えれば、盛者必衰の理をあらわす、じゃないけど、なんとなくそうなるんだろうなあと想像できる。
それでその隙間から白山信仰がポコッと出てきたらしいのだけど、頭がつかれたから今日はそこまで。
そういうでかいところについては本を読めばわかるのだけど、石見ってなんでなんかあんまり表に出らんのか。
本である程度調べられるのって、現実との乖離もあるけど、端的にいえば、楽なのよね。古文書とか現地とかあたらなくてもあらかたのことは読めばわかるから。
それより私が知りたいのは、石見のたたらなわけで、それもだいたい出雲の有名どころばっかり出てくるから難儀する。
周布川沿いは、内村だかそのへんに天然記念物のなんたらという岩(全国でそこにしか産出されていない)があって、それが磁鉄鉱であることや、川上に波佐があることなどから、たたら製鉄産地といえるのだけれど、どうしても浜田川沿いも無視しにくい。もう少しきちんと遺跡調査報告書もあたらないといけないし、なんならそれぞれの川の鉄分含有量とか知りたい。
あと、やっぱり水辺の植物も知りたい。
出雲の方は、その点風土記あたればいいから楽。
あと、大田や川本美郷あたりは、あきらかに鉄分を含んでるのは知ってる。
それは、三瓶山という火山がもたらすものだから
溶岩の流れとかなんか難しいこと知らなくても、温泉あちこち行ったから実感でわかる。
でも、いまいち浜田川と周布川はよくわからん
ただでさえわからないのに、ダムのせいで余計にわからん。
花崗岩は火山が近くになくても作られるものなのか
三瓶山より西にも火山があるのか
そもそもなぜ中国山地は砂鉄がとれるのか
どうしたら鉄分を多く含む土地になるのか
わからない
どこまで何を突き詰めれば全部わかるのか。
だからたたらは触りたくなかったんだ
いま考えていることについて
夜が来て、朝が来るのが苦痛
もっと苦痛な昼を過ぎたらまた夜になり、朝が来る
一日一冊は、どうにかこうにか本を読んでる
神社を調べてたら、陰陽の神々と修験について知らないといけなくなって、そしたら今度はたたらに触らざるを得ず、古代から戦国時代までの遺跡関係も避けられず、寺も知らないといけないけどそれは置いておいて(仏像は好きだけど寺はどうも覚えられない)、祝詞、神楽歌、催馬楽、梁塵秘抄あたりも触りながら、最終的には本居宣長までいく羽目になった。
そこまできてやっと、本当に石見神楽を知るための土台になる。舞法とか楽は、センスないから無理。やっぱり普通に見たいし
あと、日本書紀と古事記は訳文ではなくて書き下し文見ないといけないし、石見銀山街道ほか川と街道筋も頭にいれておかないといけないし、実は物部氏がキーの一つな気がしてきている。あと、賀茂氏ね。
加えて宇佐神宮と伊勢神宮。できれば鹿島・香取の宮も、行けるときが来たら行かないといけない。
いま思い出されるのは全て悪夢のようだけど、松江の仕事と浜田に住んだこと、両方あるのは、良くとれば財産、悪くとればバカの悪あがき。
『校訂石見神楽台本』の註釈をおってると、とにかく膨大な量の他地域の神楽歌や各種和歌集なども参照しているし、そのなかでも「鍾馗」だったかな?などの演目の神楽歌は『玉鉾百首』というのが多いに影響を受けているよう。
その『玉鉾百首』は本居宣長が詠んだものらしい。
だから、本居宣長まできてしまった
浜田と本居宣長の関係は、なんかいろいろあったらしくて深いわけなのだけど、松平家だから尊皇攘夷方面まではいかなくても、浜田藩の頃から本居宣長の国学には多いに影響を受けていた、と、考えるのは自然なことであって、できればもう少し浜田の国学者と本居宣長の関係について知りたい。
個人的には、浜田における廃仏毀釈の度合いも気になるところではあるけど、それはまた調べないといけなくなったら考える。
ただ疑問なのは、どういう経緯で篠原実たちは、そういった膨大な「歌」を調査し得たのか、ということ。
そもそも、なぜそういった「歌」を辿れる状態の神楽歌が六調子の時代あるいは八調子への改正の段階で作られたのか。
ある歌は岩手の神社の神楽歌だ、とか。
誰がそれを伝えたのか、どのように知り得たのか。
浜田のどこかでそういう資料の集積をしていたのかな。なにもわからない
いま自分の中の仮説の上では、西から来たものについては何となく納得がいく…人の流れの向きを考えたら。
あと畿内くらいなら自然なこととも思う。
だから、豊岡姫(山)に関わる歌は、宮廷神楽歌とかともう一度見比べてみようかと思ってる。
でも、岩手はなんだろう。
岩手の神楽も島根の神楽も好きだから、嬉しい気持ちはあるけど、いまいち道順がわからない。
日本海側ならまだしも、対角線上というか、それだけ離れてるのに、なんでだろう。
その元になった歌なり信仰なり人の動きなりわかればスッキリするのだけど
読んでも読んでもわからないことが多すぎる
最近読んだ本のなかで一番良かったのは、真弓常忠『古代の鉄と神々』
考古学的たたら研究ではなくて、祭祀論の視点というのがすごい面白かった。
どこまでそれがいまの土地に当てはめて実証できるかは、わからないし、そもそも私みたいな無学のものが土やら地名やら見てわかるわけでもないのだけど。
またそれについてはもう少し調べてから書く。
先行文献調べるんなら、新しい本を読んだ方がいろいろ手っ取り早いし、最新の見解がわかるのだけど、なんだか、いまの私にはいまいち読みにくい。入り乱れてて混乱してしまう
真弓常忠、大野晋、五来重の本のほうがなんか読みやすかったな。
斎藤英喜著書も読みやすいほう、なかなか読み進んでないけど
定説、通説というのもそうやってできていくのだろうかな
でも、新しいの読まないとそういう人たちの考え方が定説、通説あるいは異端なのかもわからないという、スパイラル
あとたまにうっかり新興宗教系の本がヒットするし、図書館使えないなかでの資料探しは結構難しい。
図書館ってありがたいな
時間ばかり過ぎていって、憂鬱