舞ひあそぶ

神楽のこととか、備忘録の掃き溜め。

たいふ

ずいぶんと前に、雇われ舞になってから娯楽化した、みたいなこと読んで、なるほどねえと思いかけたけど、よく考えたら、自分達でやらない限り、誰かを、雇って舞を舞わせることになるのよね。

神楽師とか、神楽大夫というひとたちもいたのだから

最近ことに難しいのは、やろうとすればするほど、差別問題とも、向き合わないといけなくなる。
つまびらかにすれば、傷付く人もいるだろうし、
逆に隠してしまえば、それはそれで、何か違う気もする。
農民の文化ばかりがいわゆる「民俗」として注目されがちだけど、あくまでもパーツのひとつにすぎない。
もっとたくさんの、いろんな立場の人の畏れから始まって、苦しみや、祈りや、思いとか、うーん…まあようは人生があって、地層のように重なって、足元に横たわっている。

お互いに、お互いがいるから、コミュニティが成り立っていたはずなのに、なんか、むずかしい。


というよりも、人間が扱う技術?術?は増えていったとしても、人間の精神構造は、なんぼもかわってないんだと思う。
歴史は繰り返すとか、過去に学ぶとかいうけど、そもそもかわってないのよ。あるスパンでなにかしらの目を引く出来事が火山みたいにボコッと出てくるだけにすぎない。
と、おもう。

現時点での大元考

わたしの内蔵ディスクのキャパを大幅に上回る情報量に溺れていて、そろそろ外付けHDDに入れないと脳みそがぶっ飛びそうなので
まだ精査してないし、個人の見解でしかありませんが


まあいろいろあって、
オオモトサマ
コウジンサマ
トシガミサマ
そして、ミサキ

調べているわけだけど、どうにもオオモトサマだけ、全容が見えてこない
広く分布しているものほど、古くからあるものだと考えれば良いと教わったけど、逆に、超ピンポイントな場合はどう考えたら良いんだろう。

そもそもオオモトサマの特性が、実はよくわかっていないなと実感していて
荒神、なかでも竈門の神や、ミサキなんかは、かなり、個性というか、パターンがあるから判断つきやすい
あと、トシガミサマも比較的そっち

で、そのわかっているパターンに当てはめてみると、オオモトサマというのは、微妙に異なる特性を持っている気がする。

祟る神ではあるけども
でも昔は死者供養の神楽、注連神楽、あるいは、ミサキ神楽があったともいうから、変死者とか、そういうタマとは区別していた。

邑智郡界隈とかでは、藁蛇を重要視するけど、それはどっちかといえば田の神としてのコウジンによく似てる気がする。
一方で、どうも那賀郡で藁蛇というのは、あまりみた記憶がない。
どこだったかではじめて藁蛇を見て、これか噂のアレ!!!ってなったくらいだから。


ミサキほど対象もはっきりしてない気がする
なんか、ぼんやり祖先神、開拓神、的な

名もなき小祠たちを、明治以降とりあえず「大元さん」にしたパターンもあると思う
でも、何事もない土地にわざわざ神を祀ることはしないから、やっぱりなんらかの祟りなり、大きな人の死なり、なにかがあった場所、にあるのだと思う。

クニトコタチやアメノミナカヌシといまはされているということは、国学記紀神話への理解が進んでからなはずなので、当てはめられたのは早くても江戸中期とかそれ以降なんじゃないかな?
浜田藩本居宣長国学には関心度が高かったようだから、案外明治よりも前かもしれない。
あと、吉田神道なのかなあとも思う。これもまたよくわからん

一方で、ムラムラにある宮は、かなり外の氏神が多い
春日(藤原市)や大社系統、熱田、大三島…そして八幡

歴史的な背景で言えば、
尼子や毛利とか、大きな戦国大名に挟まれて、自分等のとこからは大きな勢力は生まれず、街道や鉱脈を狙われて、翻弄されてきた、とおもう。


そのなかで、わざわざ神代七代の創造神を「大元神社」あるいは「大元社」に宛てた理由

もしかしたら、これは完全にわたしの想像だけど
小さな小さな抵抗だったのかもしれないなって、思うのです

いろんなよその神さんがおりんさるが、このムラを作ったのは、土地を拓いたのは、自分らあの祖先
自分らあは土地の開拓者、クニトコタチの子孫として、この土地に住んできたんだ、という石見人の矜持

だったのかもなあって。

これが今現在でのわたしの想像
これからまた変わるかもしれない。



ちなみに、ああなるほどね、と思ったのは
何十年単位の式年祭の神上げの意味は、ちょうどそのくらいのスパンで「個人としての死者を記憶する人のいなくなる長さ」=「死者の個性が失われるタイミング」=「神(霊の集合体)に加えられるタイミング」だといわれて
人の本当の「死」は、生きてきた時の記憶が失われるときで、そのときホトケからカミになるのだと
昔の人の寿命とか考えて、それはすごく腑に落ちる。

ホトケから、カミに
風のひとつになるときがくる。

仏教観念と日本人の感性がうまく融合した結果そうなったんだろうな。

私見

民俗、あるいは民俗芸能について自分なりの解釈

あるムラ、集団において、ある事柄を記憶するために意図的に作り出されたもの

それは、思想かもしれないし、歴史かもしれないし

そもそも、数学と違って絶対的な公式や定義を当てはめようとすることに無理があるんだと思う
必ず、狭間からこぼれ落ちる存在がある

それが、人間なのだと思う。不完全性というか

ある意味、絶対唯一神って数学的な捉え方なのかもな、と今ふと思った。
なんとなくね。


でも、
残したいとか何かしらの心持ちを抱える人と
それに共感する人と
それを体現できる人が
同時代に複数人いないと、しかもそれに連続性がないと、残っていかないものだとも思う。

残したくても体現できなければ
誰にも共感されなければ
残したいという心持ちを持つ人がいなければ
続かない。


人は、それぞれ人ひとりの人生分の長さしかないのに
それ以上の永い時を経て今残っているというのは不思議なことだと思う
変異したり断絶したりもしてるけど、入れ替わり立ち替わり何かしらの心持ちで繋いでいってる

なんでか?
不思議



オイルランプというよりは、火鉢の炭かな。
…あ、かまどね。
うーーーーーんなるほど深い

弱くなったり強くなったりしながらじくじくと思ったよりながく燃えるもんだから


でも私自身は絶対呼吸使えないタイプだよなーって思う。
根本的にからだの端々まで血が巡ってないし
次女だし(?)

なので、諸々済んだらげんやーの髪型にしようと思ってて、今はそれだけが楽しみ
同じ髪伸ばすでもげんやーヘアーは絶対楽やんか…私もサイドが癖強くて普通に伸ばすとハグ●ッドになるんよね…ハ●リッドになるよりげんやーのほうが絶対いいやろ…眉毛ないし
これで目が大きくて、スタイルが良ければ良いんだけど、まあそれは生まれ直すところから始めないといけないんで

もう女は捨てるんだ…要らねえよこんなもん糞食らえだよ
とっとと早いとこしにてえよ
だから今だけやってみたかった髪型にしてやるんだ
今までの自分じゃないものになりたい

自分で自分を良しといえる自分になりたい
どういう姿が、どういう私が、どういうふうになればいいんだ
どう振る舞えばいいんだ
どう生きればいいんだ
どうして私は普通になれなかったんだなりたかったし、当然なるもんだと思っていたのに。平凡でつまらない人間だから、それらしく、過ごせるもんだと思っていたのに

なんで何一つ叶わない

顔も体も頭の中も人生ももうなんも要らねえ

どうせ髪型だって思うようにはならないんだよ
わかってる

私の心の火は冷や水ぶっかけられてとうに消えてしまったよ

こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です

その中で一番すぐれているのは愛です

小さい頃からの刷り込みとは恐ろしいもので、嫌でもずっと覚えてはいるものだけど、正直どういうことなんかなあと思っていた

宗教なんだから信仰推しやろ、みたいな

間違った考えかもだから、あくまで薬でぼんやりしたボンクラ頭が考えることでしかないのだけど

物理的な攻撃というか、生命の危機を感じたときに

自分の命のために自分の命は懸けられない

生きるんじゃなくて、死ぬ方のとき

でもたぶん、他人や、愛する人や、神になら、自分の命を懸けて、投げ出せるということになるんだとおもう

このときの神って、たぶん、人格神になるのかなって

人身御供みたいなものでは、水神とか、自然神もあるけど、ある程度神の方に意思というか、人格(神格?)がある姿を想定しているというか

もっと原始的な「力」の神は対象でないような気がした

神道多神教ではあるけど、国家神道ではある種の一神教的な側面を持ってると思う

神の名のもとによる尊厳を守るための死

他人のこともひどく傷付ける、命を奪う場合がほとんどだから、それを容認(黙認?奨励?)する神は、わたしは悲しく感じる

本当にあなたを愛する人をあなた(神)は愛していますか、と問いたい

神の名のもとに行動決定することが信仰というのなら、それは自己愛を超えた神への愛ということになるのかな

その、行動とそれが引き起こす結果については別として

一方で、他人のために、行動決定をするのなら、それはラブであれ、アガペーであれ、愛と呼べるものなんだろうな

死ぬ間際に、愛する人を思い浮かべるのは、人への愛

神を思い浮かべるのも、神への愛

一抹の後悔やなにかしら己のことについて思いが去来するのも、自分(あるいは誰かに向けての)に対する愛

それはエゴの愛ではないと思う…たぶん

えんむくん思い出したら自信なくなったな

ま、とにかくそうなれば、愛が残る

ミルフィーユのような

知らないあいだに知らないこと書いてた。びっくりだね

一年、あるいはそれ以上の時間をかけて壊れていったものは、直るのもやっぱり一年とかそれ以上の時間がかかるわけで、
でもだからといって、その間失われていたわけではなくて、言うなれば、落葉に埋もれた草みたいな

すべて、水平線上なのではなくて、地層なのだなと改めて感じる

ちぎって捨てたはずでも、見下ろせば足元にある


やっと神楽のことへ意識を向ける余力が少しだけ出てきて、時々考えてみる
いまは、某よもやよもやのおかげで、新しく色々考えを巡らせるのもたのしい

五神、五行と、五方、五つの季節…に加えて、東北みたいに修験の「仏」の色がより濃いところでは、五大明王まで出てきてしまうわけなのだけど、ここまでくると、なんかめちゃくちゃになってくるのよね

鬼剣舞は、埴安大王にいるとこにカッカタというチャリ面みたいなので、不動明王なのだけど、なんでそうなったんだろうとか、西方の白面が、もっとも重要といわれてるけど、こっちではそういう感じしないなあとか
西方は、恐らくは西方浄土も示唆されてるのだと思うけど
西だけど右白虎だしなあ…やっぱり長男さんのほうがこっちは強めな印象

あ、でもそうなると虎が出てくるのはある意味自然なのか
土地が虎との親和性が高いのかな

潮の流れは、東北なんかは北?東?オホーツク?の方から来てそうだけど…


あと、次郎さんは、明王的にいえば雷をあらわす?ようなので、そうなると善ちゃんなのよね
でも、明王の名前とかビジュアルにみつりちゃんといぐろさん要素があるのは面白い
…あ、だから髪が赤みより黄色系が強いのか

それ以上は明王はむずかしい
カタカナ多すぎだし


湯立てを考えれば、赤(南)の対は黒(北)で、火(赤)の対は水(黒)なのだけど、それについては、不思議なくらい地域を越えて共通してる
はやちねさんもあるし、花祭も地域によってだけどあるし、神奈川にもあった。五神も則ってる

火と水で湯を作り、それをかぶることで清めたり、死と再生をあらわしたり?した結果導き出されるのが日なので、たぶんなんかしらの示唆はあるのだろうけど、そう思うと五神なんかはあんまりそれだけを突出して重要視してるようにも思えない
あくまでも五郎さんが重要なので

あーーー…使いがもしかしてカッカタなのか?
顔が似てる

カッカタが、向こうでも使いの役割で、本当の不動明王は姿見えないとか、本当は違うもので表してたとか、そういう可能性もある。
大学の時もっと真面目に見ておけばよかったなあ


ようするに、いろいろなことが失敗したミルフィーユみたいにぐちゃぐちゃ重なっていて、一枚一枚うまくペロッて剥がせないのよね

だから中途半端な杓子定規しかないし、目の粗すぎるザルで掬ってるようなものだから、ボロボロとこぼれる
でも、それにすら気づいてない人も多い
だから、意味不明な嘘の流布が、当然のように通説になる

石見神楽だけじゃなくて、説明し尽くされたかのように思えるところでも、論と実際の解離はあると思う

地層だって、風雨に穿たれて露出したところと、全く見えないところ、同じ面でも見える層が違うところ、いろいろある
旧石器時代がないと思ったら、あ!関東ローム層!!みたいなこともある(うろ覚え)


つまり、いま、自分の足元で見えるものからしか、いうことができないので、断言したり断罪したり、一方が正道他方が邪道と決めることもできない
したらいけない

ひとも、かぐらも、れきしも
という、自戒


昔以上に、頭のなかが不明瞭で行ったり来たり積んだり壊したり整理されないし、うまく表す言葉が出てこない
なんにも言葉が出てこない
悔しいもどかしい

よもやよもやしてないで、本を読めばいいのだけど
文字を食べるのが苦しい

わたしの頭のなかが大失敗の崩れたミルフィー
わたしなんか、無能だから馬鹿だから屑だからこんなことになるし、なんもできないなんも成さない誰にも認められない愚図だから救われない無駄に時間を費やしてるだけ

吸う吐く

なんか、また久しぶりになってしまいました

一年、神楽を見られんかったけ
冬服もまるっきり手元にないけ

先々週ようやく一人での遠出に許可が出たので、おっかなびっくり帰郷

飛行機と新幹線はまだだめだから、寝台で。

久しぶりに、肺一杯に吸って、吐く感覚。
どうしてこんなことになってしまったのかとか、この一年糞みたいで何してたんだろうとか、ぐじゃぐじゃのままだけど、久しぶりに慣れ親しんだ胴の音や空気の震えがからだにすうっと馴染んで吸収されていくようで気持ちがいい

といっても、たぶん、服用必須が前提のコンディションなんだけど


悩んでたけど帰れてよかった

マツリの基本型

『日本の聖と賤』という本を読んでる
わかるといえばわかるけど、わからないといえばわからない。むずかしい

マツリの基本型として巫術(シャーマニズム儀礼)がのこっているというはなしで

「神憑りは、だんだんクルウ状態になって激しい身体表現」をともなう
「この神遊びが、その場にふさわしい状況をより効果的につくりだすためには、どうしても歌舞音曲は欠くことができない」
「ハヤシ(囃)というのは、クルウ状態になりつつあるシャーマンを、そのまわりを取りかこんでいる人たちがかけ声などをかけてその状態を加速させる」

そのトランス状態をクルウといい
神との交感儀礼を行い、託宣をカタリ、呪文をトナエルという

このマイ、オドリ、クルイ、カタリ、トナエルがマツリの基本型である、と、いうことらしい

これが村の防疫厄除などのマツリとして、村落に受け入れられていたけど、体制的社会においては人心を惑わすことを理由に、卑賤化されていく…というはなしに繋がっていくのだけど、これはとても納得がいくようなはなし。
なぜ人心を惑わすことを恐れたかといえば、それが「乱」となって、体制を脅かす可能性があるわけで。

だから、体制的社会や国家神道を進めていくにあたっては、やたらな神がカタリ、トナエたら困るってこと。

宮が掃除されておらず汚い、とかその程度ならかわいいもんだけど、米の出来不出来も内容によっては体制の脅威になりえる。また、なにか言われたら不都合な神々も歴史的にはおわすわけなので、まるごと引っくるめてやめさせた方が早い。


でも面白いのは、それでも人は歌舞音曲は捨てられなかったってことだし、やもすれば、神憑りはしなくても、トランス状態にはなることがある
今でもそれは当てはまるように思う

でも、大事なのはあくまでも舞い踊るほうということがわかるのも面白い。

いまもかけ声という囃しも、楽という囃子もハヤシとしてあるわけだけど、それはあくまで舞人をトランス状態にさせ、「神遊び」の状況を作り出すことに意味があるので、そればっかりが走ればバランスが崩れる。

ひとつバランス崩れれば、神遊びにならないし、みんな気になってもっと崩れる

師匠がオーケストラ、というのはまさにもっともだとおもう


その形態というか…「マツリ」の姿が時代や場所によって人やモノを変えながら今なお続いているのは面白いかも