舞ひあそぶ

神楽のこととか、備忘録の掃き溜め。

能と私と神楽

今日は疲れて眠いのであんまり考えないでかけること。

 

昨日能は母に連れられて小学生のころから見て言ったという話をした。

なんかエッセイみたいでこしょばゆいけれど、自分の神楽を見る目の原点はここだと思うので一応書き留めておくかな。

 

なんで能・狂言だったんだろう、というのはいまだによくわからないけど、助成とかの関係で歌舞伎より能の方が子供料金は断然安かった、子供向けの能楽教室もあった、というのは大きいのかもしれない。

親の影響ってやっぱり大きいのだなあと感じますね。

でも母としては、予想以上にのめり込んだとびっくりしたと思う。

 

萬斎さんが私の初恋です、なんつって。

 

そんな、十年以上前のことなんて覚えてないわ。

 

年に一回は必ず能と狂言を見に行って、大学行って自分でバイトしたお金が使えるようになったらもっと頻繁に行っていたな。

高校までは、人目当てか面白そうな演目重視だったけど、大学になったらもっと貪欲に、なんとなく見たいと思った演目を狙って出かけるときもあった。あとはゼミの先生が名手だと言っていた人の公演とか。

 

一番狂言で印象に残ってるのは、実は萬斎さんではなくて万之助さんだったかなあ、今はもう亡くなられた方だけれどその方の「柑子」。

エアー柑子だったにもかかわらず、本当に皮をむき、みずみずしい果実を食べているような、本当にその甘酸っぱい匂いが漂って来そうな、そんな所作だった。

 

能はいろいろあるけど…パッと出てくるのは「清経」。悔しい、悔しい、悔しい、老兵のあまりに純粋な無念が悲しい。

あと、いつ、誰の公演なのかもわからずDVDで見ただけだけれど「鵺」の、寂しい、悲しい、苦しい、顔。

不思議なのは、面をかけているのに、たまにまるで吸い付いたかのように本当の顔に見える人がいる。人にもよるし、多分得手不得手な演目や役とかにもよるかもだけれど、本当に泣いていたり、笑っていたり、晴れやかだったり、愁いていたりしている。

型も、神楽以上に厳密に決まっていて、みんなそれを忠実になぞっているにもかかわらず、感情が爆発して、圧倒されるときがある。

当たりの時は、本当に泣いちゃうからね。一緒にニコニコしちゃうからね。

でも、本当に稀。

囃子と地謡能楽師の舞と自分の感情とがピッタリと当てはまったときだけ。

 

極限まで具象をそぎ落とし、すべてを夢幻能のテンプレートに落とし込むことで、むしろ深くて無限の表現を可能にした能。世阿弥、おそるべし。

すべてが抽象的な世界だから善も悪もあやふやで、すべてが靄に包まれたよう、だからみんな救われる。歴史の渦に消えた者を思い出し、追憶することで魂を慰める鎮魂の芸術。

すっかり狂言そっちのけの話だけれど、能の根本にはアニミズムがあって、そのうえに仏教思想が乗っかっているってかんじ。

草木国土悉皆成仏、中国本土ではほとんど受け入れられなかった思想が、日本ではすごく普通のこととして受け入れられている。みんな救われていい。みんな癒されていい。

ほんと、能は日本だから生まれた芸術よね!ありがとう!

 

こうやって書いてみると、じゃあ神楽は?となるね

採り物神楽、特に石見神楽なんかは一見すると歌舞伎に近いように見える。

だから熱心に歌舞伎研究に勤しむ若い人もいたりしちゃったりして?

 

でも、私はやっぱり歌舞伎じゃなくて、能に近いんだと思うんだなあ。

というか、能から歌舞伎も神楽も派生したといっていいのでは?

で、そのおおもとは田楽であり、猿楽だった。ということはみんな兄弟みたいなもんよね。こじつけかしら。

 

なんで、歌舞伎じゃなくて能なのか。

里歌舞伎なんかはおいておき、能は、神社でやるんよね。

いまでこそ歌舞伎奉納とかしてるかもだけれど、基本は芝居小屋だったはず。

これって、やっぱり、求められていることがなんか違うんじゃないかな、と思ったりして。

どうなんでしょうね。

あんまりそういう空間系のことは苦手なのだけれど。

 

傾向が顕著な例として石見神楽だけに視点を絞っていえば、どんなに勧善懲悪といえ、完全な悪が出るものって、特に元からある演目なんかでは、あんまりないような気がしていて。

 

ちょっと、なんか悪役の皆さまにも優しい目を向けてあげたくなるようなキャラクターが多いような。私だけなのかしら。贔屓目に見すぎなのかしら。

 

あんまり演目そのものはチャリがダラダラ長くて好みではないけど、「黒塚」の鬼なんか「天地開闢の時、陰々たる邪気残れる形を狐に受け………我が幾星霜を知らぬ輪廻に浮かぶまじき大悪狐とは我が事なり」つまり、なんかよくわかんないけど生まれた頃から悪として存在しつづけてなんだか救われない狐ちゃん。悲しいくらい純粋に悪。誰のせいでも本人のせいでもなく、ただただ悪。

最後も「世界広しといえども飛び行くところ無し。国は多しといえども逃るべき国無し。」討ち取られるのはなんと無念なことかと。誰もその存在を正義としなかったがゆえにただただ悪として死にゆく。

ただの正義が勝つという話ならここまで言わなくてもいいと思うのね。

 

本人のせいでもないのに悪として生まれたが故の業を、口上で語らせることによって、彼自身を昇華させてあげたい。救ってあげたい。そんな気がして。

能の演目から妙なつぎはぎをしているけれど、ここだけはやけに能的な手法を使ってる。

 

狐さえもいとおしい。

 

でもじつは、スサノオも彼になりえたかもしれない。

 

たまたま、アシナヅチテナヅチイナタヒメと出会い、助けてあげたいと思ったから助けを求められたから、その荒ぶる力を良いことに用いた。ヒーローになれた。

善と悪は紙一重だし誰がどのように受け止めるかでかわってきてしまうもの。

もしかしたら、狐もヒーローになれたかもしれないのに持って生まれた力は悪としてしか見てもらえなかった。

 

うわあああああせつないいいいい

 

繰り返すことが追憶であり、鎮魂であるというのはなんだか不思議な仕組み。

でも、神と同じくらい鬼にも惜しみない愛情を注ぐというのは、やっぱり、いいよなあ。

 

そういうふうに思えるのは、能が悪であったり歴史的には敵方として消えていった者たちに優しい目を向けているのを、感じていたからなのかなとか思ってみたりして。

 

わけわかんなくなったから寝る。