小難しく文化について書いてみよう。
GW中はかなり神楽を見る機会が多くて、むふむふなのですけれど、たまたま文化財系の神楽が多くなりそうなので、自分の確認のために文化についてちょっと思い出してみようかしら。
というわけで、3年ぶりに大学のノートを引っ張り出しちゃった。
そもそも日本の文化行政を担っているのは文化庁。
ノートによると、文化庁の予算のうち6割は文化財保護制政策、3割は芸術文化の振興など、1割程度が宗教文化?に関わることに使われているみたいです。
近年のソフトパワーがどうたらみたいな流れで、文化庁の予算自体はその役割の増加に合わせて微増していたらしい。いまは調べてないからわかりませんけど。それに対して地方自治体の文化関係費は激減しています。平成5年頃と比べると半減しているらしい。
これについては、仕事をしていても感じることではありますが、おそらく私よりも師匠とか…実際にそういう文化に身を置いている方のほうが感じておられることかと思います。
いろいろこれについては理由があるのだけれど…本題じゃないので割愛。他にもいろいろ割愛。
そもそも、文化や芸術というのはパトロネージを行う人によって支えられてきました。
それは西洋も日本も同じ。
能と大名の関係とか、典型的。
歌舞伎や文楽が庶民の芸能といわれているのは、簡単にいえば富のあるパトロンというよりも、庶民がいろいろな面で支えてきたから。
神楽については、昔の資料とか見ていると、やはり村の庄屋さん?とか金銭的基盤のある家が普請して…というようなことがわかりますね。
まだネタは温め中なのですが、中国山地はたたらで財を成している地域。ですのでたたら業と神楽という関係性もちらほら見えてくるわけです。いやーなんてロマン!
あ、今思ったのだけれど、なんだかクラウドファンディングって仕組みが似てるかも。
ようは、文化的なことって、お金がかかるんです。
というより、儲からないんです。
市場経済は儲からないことが嫌いです。だから生まれたのが文化政策。
すっごく雑な言い方ですけどそういうこと。
あ、あと話は変わるけど、
文化とか芸術はメディアなんですよね、もともと。プロパガンダ。
日本では、今はなき伎楽の時代からずーっとそう。つまり飛鳥時代くらいからずーっとそう。
能とか神楽をそっちから見てみても面白いんだこれがまた。ぐぬう
まーそれで文化財って何なのって話なのですが。
これもパトロネージあたりの話が関わってきて、明治以前はそういう文化の「財」のある場所は寺社であったり大名などの旧家であったりはたまた土の中であったりでした。
ま、ようはお金があるところ。あるいはむしろ忘れ去られていた。
それが明治維新後、欧米化の波がドワッとやってきて日本人ってなに?となります。竹内幸夫のいうところの身体の改革と神楽における舞方の変化みたいなのも、そういうことなのです。日本人の身体から五感から思想からすべて欧米化したのですからエライこっちゃですわ。
その強烈なパワーは例えば廃仏毀釈であったり、国土の開発であったり…文化の「財」の散逸と破壊を引き起こしたのでした。
また不況で旧家が頑張って持っていた「財」が散逸したり海外へ流出してしまったり、その失われる規模もグローバルになってしまったんですねえ。アメリカとかの美術館にめっちゃ貴重な日本のものが収蔵されているのはそういうわけなのです。
あれ?なんかこの雰囲気やばくない?ってなったのが廃仏毀釈。
ちょっとやばいよね、ってなって生まれたのが文化財保護法。
岡倉天心とかあの辺りの人たちで、明治4年が最初。当時は仏像とかモノだけだったけど。いやーすごいよ、うん。でもむずかしい。
この時から文化財保護政策が目指しているのは「保存」と「修復」、そして「活用」。
すごいんだけど、これがやっかいなんですよねえ。
「保存」というのは、今ある状態をプリザーブドじゃあないですけど…その形で時を止めること。
当時の技術とか姿を保存して残したいから。
だから、指定されると簡単に有形のモノは修繕もできないし、無形のモノは変えることを許されない。
いくら補助金が出るとはいえ、全額ではないのでそうとう金銭的にも精神的にも負担が大きいようなのです。
この法律の変遷も難しいけど面白いんですが、難しいので割愛!
えーと、無形の文化財は1950年制定の時からなのかな。
この時の法律は国会議員が発議して、政府ではなくて与野党の議院の全員が全択一致で採決されたらしい。つまり、政治的や政権に左右されない法律…であるがゆえになんとなく力が入らないという…おいおいなんでやねん!
「無形文化財」の定義は
演劇・音楽・工芸技術その他の無形の文化的所産で 我が国にとって歴史上又は芸術上価値の高いもの
無形というのは、生きている人間による「わざ」そのもの。対象は、個人であったり集団であったり。これって欧米にはどうもない考え方らしい。
神楽の場合は主に団体そのものにかかっているところが多いんじゃあないかしら。
「保持団体」は、個人的特色が薄くて、その「わざ」を保有する構成員が複数いる団体に認定するようですので。
有福は演目にも指定がかかっているんだっけ…演目だけが指定なんだっけ?
すっごく当たり前のことなのですが、文化財だから偉いんじゃあなくて、もっているものがすごいから文化財なのです。
国をあげて残すべき宝なのです。指定を受けた人たちは、その宝の守り人。
確かに文化財として守りつづけるその努力は偉いというか、いやーやっぱすごいわって思うけど、なんか…なんかちょっと違うんだよなあ~なんだろうなあ~
たとえば、大元神楽。
あれは舞がどうのというよりも、託宣を伴う神事と神楽によって構成される式年祭とその担い手の集団が、いわゆる「神懸かり禁止令」で神懸かりがほとんどなくなった日本において、守るべき文化なのでしょう。そのための指定なのではないでしょうか。
どうなんでしょう。
島根ピンポイントでは勉強していないので誰か教えてくれないかなあ。
だってさ、舞が古式ゆかしいっていったって、その古式がどこまで古式なのか、最先端の舞だった時代がいつの古式なのか、今みたいに録画のできない時代はよほど詳しく描写している資料でもなければわからないじゃない。
演目とか神楽歌はまだ経てきた時代をたどることができるけれど。
だから、客観的な資料で、いやー宝だよ!っていえる部分とか団体が指定になっているんだと思うんですね。
でもさ、国が強制的に捨てさせたものを、うっかり言うことを聞かずに残していて、今度は国がそれを大事に守ってるってことになるわけで。
なんだかねー。
時代は変わるんだねー。
ビミョーな心持ちですけれども。
佐陀神能は前に書いた気がするので割愛。
長くなったのでまずはここまで。