舞ひあそぶ

神楽のこととか、備忘録の掃き溜め。

師、

いっつもししょーししょー言っておりますが、最近はことに「師」という存在について考えるのです。

師って、追い越してやるうって気概で背中を追いかけることは、必要なのかもしれないけれど、淘汰する存在ではないんだよなって。

手を引かれて顔を見上げて話しながら歩いてるんだけど、いつか、同じ目線の高さでものを見て目を見ながら会話したい、って気持ち。でもどうしても一歩後ろになって一生懸命てくてくついて歩いてる感じ。ま、腰ぎんちゃくだし。


そもそも、なんで神楽における師匠がいるのかといえば、自分の島根の神楽への入り口が、「神楽が好きだから見に行きたい知りたい」ではなくて卒論のテーマとして「神楽が好きだから調べたい知りたい」だったからなのだと思います。

ゼミの先生にとっても島根という地域はフィールド外だったので、手始めに課せられたミッションは「お世話になれるキーマンや顔の広い人、知識の深い人を探しだせ」みたいなことだったのでした。
それから、存分にいろんな書籍を読み漁れってね。
本からだけでは神楽は見られないから、人が必要なのね。

先生の調査スタンスがそういう感じだし、もともと、私自身尊敬できて信じたいオトナを求めていたところはある。それは、性格的に。


いま振り返って見れば、やっぱり師という存在って、基軸というか…自分の思考の土台、基礎として必要だったなって。ゼミの先生(もまた師の一人である)に感謝しています。
とはいえ、いくらなんでもよく先生も人選を一任させたなあと思いますが。
たかが卒論、自己責任とはいえ師のチョイスによっては思考がいまと対極で偏ったものであったのかもしれないのですから。

ししょーはちょいちょい切れ味抜群ですが、いろーんなものを見て感じて神楽について思考をされておられるのを感じます
八調子の神楽に対する誇りもすごくある。誇りをもって舞われている姿を見るのは嬉しい。
多分だけど…好きだし誇りをもっているからこその見識の深さなのかなって。あんまりほめたたえると怒られるかなあ。

でも、そんな師匠とのご縁があったから、師匠が信頼して師匠のことを信頼していると思われる、人とのご縁も生まれたわけですね。だから、自分みたいはよくわからん若造が師匠世代かそれ以上のオジサマのお話をうかがうことができたのだと思ってます。

ありがたやありがたや。


私にとっての師って、自分より高い目線で世界を見ていて、キョロキョロしながら覚束ない足取りの自分の手を引いて歩いてくれてるような存在。
その人の言葉を聞いて、素直に吸収する。
でも鵜呑みにするとはちょっとちがくて、咀嚼して自分の頭で思考をして体内にいれる感じ。それがまた私の思考の軸となり土台となっていく。血肉となり骨となる。

同じ目線の人と手を繋いで歩くのも、多分悪くはない。見てるもの思考することは違うから。

師は目線が自分より高いから、ポンとでた疑問にたいして答えであったり示唆であったりなにかしらの思考の欠片を与えてくれる。
同じ目線だと、私の思考の穴を埋めるにはちょっと何かが足りない。

そもそも手を引いてくれる人も繋いでくれる人もいないで、一匹狼をするにはまだまだ無知すぎて、うまく歩けないのです。
思考の軸がないから、誰かの言葉にうろたえる。ぶれていく。

だから、師が必要なんだなって、教えてくれた先生に感謝。
ししょーに感謝。

でも、成長のために、もっとしっかりした骨をもって、思考して、いつか、少しでも師の目線に近づきたいという気持ちも忘れて甘えてばかりではダメなのね。忘れてたけど。
私には身体的な神楽のことは体得できないので、いつまでも師匠の目線はいつも高いところにあるけれど、少しでも近い目線でいつかは世界を見てみたいのです。
師匠の思考にほんのちょっぴりのエッセンスを加えられるようになりたい。
ししょーを見上げながらそんなことを思ったりして。

わかってもらえるかなあ。


なんか言いたくなったら随時書き加えますけど、思ったのはこんな感じ。