舞ひあそぶ

神楽のこととか、備忘録の掃き溜め。

舞のこと

儀式舞と能舞について

儀式舞は、観てるものは意識せずに神への気持ちを主とする舞。
それはそうしようという努力ではなくて、そうしかならない。ありのまま、素直に舞うしかできない。

能舞は神も氏子も共に興じる舞。
ちょっぴり、氏子への魅せ方を考えるのだ、と。


これは神楽を舞う人でないとわからないことだなと、お話を聞いて思ったのですけれども…

ただ、儀式舞は、魅せようという意識ではなくて…昔から伝わるそのままを真心で舞う意識なので、変わらなかったのだなと思いましたのです。
私的には、献饌と同じなんだなということで納得。


外宮だったかなあ、神様へのご飯を毎朝毎朝何百年、千年単位?でお出しし続けている神事があったと思いますが、そのご飯がビックリするぐらい昔のままだった気がします。テレビをながら見していただけなので定かではないのですけれども。
アワビの干したものとなんかと…みたいな。

その時に、神様は超絶長い年月、毎日同じもんを食べてて飽きないんだろうかとか、正直思いましたが、それってあくまでも人間の感覚とか欲でしかないのでしょう。多分。神様じゃないからわからん。

人に見てもらおう、魅せよう、という気持ちが働くと、どうしても時代にあわせて変わっていくのだと思います。

神への気持ちが根底にあったとしても、ダイレクトに反応を示す人が、氏子が、舞子の意識のなかに入ってくれば、そうなるのは至極自然のこと。
それでいいんだと思います。

でも、今まで、儀式舞と能舞は、そういう意味で意識の住み分けがされていたから、ここまでどちらも生きている舞として継がれてきたのだろうし、これからもそうであってほしい。

相変わらず、私は囃子とか所作とかいまいちわかりませんのですが、基本的に能舞の所作とかいろいろな原型は儀式舞にあるのですよね?

ということは、儀式舞が変わらずに舞い継がれることで、能舞の所作の型とかも時代の流れに飲み込まれず生き残っていくということですよね。
ふと立ち止まった時の、道標になるというか…
本来の神楽であること、存在意義、神楽の持つ美しさ、祈り、そういったものから外れていってしまっているよ、と、そっちじゃないよ、と小さな声で教えてくれる存在なのかな。


コミュニティの力が弱くなって、お宮のお祭りが小さくなってしまったら、どんなに頑張っても舞う機会のある儀式舞は限られてしまう気がする。
能舞でも、夜明かし舞が少なくなったら舞う機会がなくなってしまう演目があるんですから。

時代だから仕方ない、のでしょうか。
ただただ、愛するものがゆっくりとしかし確実に失われてゆくのを眺めるしかできないのでしょうか


ヤバイ、なくなる!守らなきゃ!っていって文化財になってから記録をするんじゃあもう手遅れだと思うのです。
それは最後のセーフティネット

どうしたらいいんでしょうね。

なんで、よそ者でしかない私がこんな悶々してるんでしょうね。


なんなんでしょうね。
ま、愛よね。