舞ひあそぶ

神楽のこととか、備忘録の掃き溜め。

大きいけどミニマム

浜田拠点設置計画というか、妄想が膨らんでいます。
一人暮らしの固定費がどれだけかかるかわかれば、想像しやすいんですけれども。ふむむむ。

テレビは置きません。電話も要りません。
キッチンもぶっちゃけ要りません。ってそんな家あるかいな。
洗濯機も要らんが、エアコンはほしい。でも小さい家なら風通して扇風機とか、冬ならストーブでなんとかなるか。

風呂とトイレと、二部屋あれば十分。
底抜けたら嫌だし平屋がいいかな。縁側憧れるけどきっと掃除しないな~。

やろうとしてることは壮大な計画なんですが、自分が想像しうる限り必要なものは案外少なくてミニマム。
言うてしまえばいまもひと部屋と水回りで十分事足りてるんですよね。

あ、カレンダーはつけて、神楽の予定を書き込めるようにする。むふふふ

知り合いにこの話をしたら、神楽サロンじゃんって。いいかもいいかも。
人が集まれば情報が集まる。
情報が集まればネタができる。
結構いろんな人が面白がってるから、案外実現できるかもしれません。
がんばろう。



話は変わって昨日の続きでちょっと思ったこととか。

なんで「塵輪」じゃなくて「八幡」なのかなーとか思ったりしましたが、あのビミョーに鬼の顔が違うっぽいところがいいなあと思います。

わたし的には、第六天からいらした方のほうが悪そうな顔している気がします。
でもブイブイいわせて飛んできちゃった感は大陸のとーちゃんかーちゃんのほうがあるかな。そういう意味で、なんかどこか茶目っ気がある感じ。

そういえばながはまさんのかーちゃんはマジで悪そうなというか、強そうな顔していたけど。

なんでタラシナカツヒコは素面で、八幡麻呂は立ち合いまで面をかけているのかな。神様だからかな。でもそうしたらなんで立ち合いで面を外すのかな?見にくいから?

なんだかんだいいつつも、「塵輪」と「八幡」はきちんと住み分けというか区別されているんですね。
そういうところが先人たちのすごいところだと思うのです。


「貴船」は、「女」という型の難しさとかも少し感じます。
神たちは、一種「男らしさ」というか、強かさも持っていますけれども、女は、あくまでも「女」なのですよね。
でも、多分だけど…本物の女性では舞いきれない「女らしさ」があると思うのです。型だからこそ表現されるものというか。型というのは本当にすごい。

女の狂おしい思いを、男性が身のうちに入れ込んで舞う。ねじれたようだけれど、そこから滲み出る凄み。
不思議なんですよねえ。

見るその時々で、感じることは違うのですが、わたしは女の気持ちが少しだけわかるような、わからないような。羨ましいような、なんともいえない気持ちになります。

それで、昨日興味深かったのは、あの演目のとき、ご年配のお母さんたちが、前のめり気味で食い入るように見られていたことでした。多分、一番その層が、熱心に見られていたのではないでしょうか。

このお母さんたちは何を感じているんだろう。何を思っているんだろう。
なんで、こんなに真剣にあの空気に身を浸しているんだろう。
ちょっと哀しいような。
難しい、もやもや。


心に住まう浅ましい鬼と向き合うているのか。



えべっさんは、なんか見たことのあるアシナヅチみたいなおじじさまのお顔をしていて、ええええええと思いましたが、みんなしれっとしているところが一番驚いた。なんなんだありゃ。どうしたんだ。

子どもたちがえべっさんの顔というアイコンで認識をしているわけではないことがわかり、それも興味深かったのですが、なにより、そこまでしてまで「面をかけていなければならない演目」なんだなと思って、その判断基準が気になったりしました。
面をかけずに素面で舞うことはしないんだなあって。

なんでなんだろう。



「大蛇」は、ちぎれそうでハラハラしたり、なんかプリティーだったり。

前に座っていた子が、おもむろに、僕は大きくなったらスサノオになる、と言ってきて、ほおおおと思いまして。さらに面白いのが、「でもあれはみんな男のひとがなかでやってるんだ」と、そういうとらえかたを同時にしていたこと。

でも、スサノオの中のひとじゃなくて、スサノオになりたいのよね。

師匠もなんかそんなようなこと言っておられた気がするなあ。
だけかに

「女の子はできないの」とも言っていて、それがどの辺りの地域での決まりなのか、それともその子の親戚が言うことかを反芻してるだけかわかりませんが…
その言葉や意識がまかり通るくらい男性の担い手がいるんでしょうか。



眠いから寝てから綴喜かくかも