お金と舞
八調子が娯楽性にとんでいてどーちゃらこーちゃら、っていわれるときに、
もともと能舞は氏子の御花とか寄進?によって舞われていたから、より人の求めるふうへと変化していった、というような説明がよく使われますよね。
なんとなく、ショービジネスというような、ニュアンスが含まれているように感じます。
でも、ふとおもったのは、お宮の奉納ごとにおけるお金と舞は、そうはいってもやっぱりかかわり合ってるのだとおもう。
ギブアンドテイクというか。
昨日思い出したのですけど、花祭りで、昼間の時間に、延々と個人のために舞う時間があるのです。
玉串料なのかなあ。
お金を奉じたその人のために、いうなればリターンとして、舞い奉じる舞。
なんか悪いことがあった人や、なにか節目を迎えた人、家族。
その土地、コミュニティに生きる人たちのうち、その年よりいっそう祈りのある人やお家が、お金と引き換えに舞ってもらう。
で、だいたい舞う人も、見てる人もそれがどんな人、なにがあったか、などもわかってる。
同じ土地に生きてるから。
基本的には、八調子地域でもそういう意味合いだったんだと思うんですよね。
だからこそ、やっぱり一番よいものを神の前で舞ってもらいたい、自分も享受したい、という思いも働いたのだとおもう。
それで舞ぶりや舞い手が淘汰されていった、というのはたしかに興味深いですけれど。
海の人としての気風もあるのかもしれないし、他の土地とのやり取りが必要とされた土地だからかもしれない。
でも邑智郡もあったんじゃないかなあ。わからんけど。
大目録だって、いってしまえばそういうリターン品ですよねえ。
だから、なんというかなあ。
娯楽性とか、ショー的特性に目が行きがちなんだけれど、基本的には、やっぱり神楽なんだよなあ。