さんばそうさんば
能楽囃子、狂言「末広かり」と、まんさいさんの「三番叟」を観に行きました。
自然と笑っちゃうやつと、圧倒されて口があくやつ。
CGっていうのかな。映像を使っていて、コンテンポラリー?純粋な狂言というよりかは、現代舞台芸術って感じ。
囃子にも後見にも、小学生の頃からみていた好きな方がたくさんおられて、はっぴーはっぴー
やっぱりまんさいさんは、全身から洩れ出る気迫といいますか、全身から声もなにも出てる感じといいますか。もーとにもかくにも美しかったです。むふっ
師匠も、いつも基礎が大事、土台つくりが大切と、いっつも言っておられるので、きっと神楽でもいえることなのかもしれませんが…
一番に思ったのは、かぶく、というのかなあ、応用編を魅せるには、徹底的に基礎が身に染み込んでいなければ、できないものなのですね。ふむふむ
練習量も、経験もあって、基礎や代々受け継いできた伝統が骨として筋肉として身のうちにあり、裁量を見極める眼と、感性があるからこその「新しい挑戦」ができるとでもいいましょうか…
なんていったらいいのかなあ
伝統の世界に身をおいておられるからこそ、「なんかかっこいいから」だけで新しいことをやろうとしても、一笑にふされる気がします。
かっこよくするつもりが、かっこわるくなる。
ナマモノですから、完成することは、ひょっとしたらないのかもですが…所作が、まるで箸を持つとか歩くとかそういう身体動作のごとく本当に染み付いてるからこその、シーンで際立つその所作ひとつひとつの美しさ。
崩すんじゃないんだよなあ
私の動体視力でも追い付くスピードなのでまじまじ観察しますが、能も狂言も指の先から足の爪先まで、顔の向きも、背中も、ただひたすら座っているときですら意識を張り巡らしているように感じられます。
神楽でも、ちょっとした指先の具合とかで美しさって変わりますし、心地よい舞の方はやはりそういったことに意識することを忘れない方が多いように思います。
そこは、経験とかに慢心をせず、つねに意識。意識することもまた経験で身に付いたことといいましょうか。
去年つれていっていただいた〆の神楽ぶりに、目と耳と頭だけになった感覚でありました。むふっむふっ
案外久しぶりではなかった。
で、「三番叟」そのものについて
現在は省略されている「父尉」、能にして能にあらず「翁」と、狂言方の舞う「三番叟」で、式三番。
んーと、うろ覚えですが…ひらくときに、舞われる神事的な舞といえましょう。
江戸くらいまでは、能楽が行われるたびに一番始めに舞っていたんじゃあないかしら。
あとは子役のデビューとか、一年の始めとか、とにかくそういう「ひらく」ときに舞われます。
「三番叟」は「三番猿楽」とも呼ばれるそうで、なるほどたしかに猿楽的なにおいもします。
ま、見たことないのですが。
猿楽はものまね「もどき」の芸。
見ていると、農耕を思わせる所作がすごい多いです。
叟だから舟かと思ったけれども、違うっぽい
調べてみたら、「翁」は天下泰平、「三番叟」は五穀豊穣の意味合いがあるとのこと。
だから、田んぼでの……というかんじ。
眠くなっちゃったからいったんここまで。
ただふとおもったのが、叟が雙
二人が対で舞ったら完成されるのでは?とか思ったりして。
だめだねむい