舞ひあそぶ

神楽のこととか、備忘録の掃き溜め。

芸事につき

そうそう、年末に白州正子さんの『両性具有の美』という本を読んだのであります。
なんで数ある著書であえてそれなのか!って感じではありますが。超、端的にいえば師弟の話とか、あったので。


世阿弥がまだ藤若と名乗っていたときに、父の観阿弥と諸国をまわって猿楽の興行をしたり、ほかの芸事の人たちと関わったりしながら様々な芸や人の立ち居振舞いを盗み、自分のものとしていたのだそう。

もともと、猿楽は「もどき」物真似の芸。

血筋や環境含め、やっぱりそのセンスをもっている、ホンモノだったから、観阿弥世阿弥が能を大成せしめたのかも。


また読んでいると「芸道においては教えられることはわずかな技術だけで、盗む以外に身に付ける方法はない」から、盗むほかない、みたいなニュアンス。


たぶん、白州さんもおっしゃる通り「芸道」、芸事について、根本同じようなことは言えるんじゃないかなあと、感じています。神楽もね。
萬斎さんも、たしか、盗みが大切みたいなことはおっしゃってたような。
まあ何事も極めようとするとそうなるのだろうか。


でも、なんというか…ちょっと、人によっては誤解を生みやすい表現でもあるなあと、私は思ったりして。

というのも、もともと持っているセンスに加え、そもそも基本、土台、基礎、骨がなければ、どんなに良いものを盗んでも自分の芸、所作、肉にはならない。
ただの悪趣味なコピー。あ、「リスペクト」さんになるわけだな。

だからといって、基礎となるものは、全部が全部受動的に教えられるもの、与えられるのを待つものではない。常に能動的に、自分から師に教えを請うて、習得していくもの。

かつ、言っても反発して理解しなければ師は言わなくなるし、一度言って理解する耳と頭と素直さがあるなら、何度も言わなくても解るし、そのうち背中を見て盗んで学ぶから、結局「教えられるもの」は「わずか」になる。

ということをいいたいのかなあ、と思ったりして。

なんともとりとめのない、まとまりのない思考をそのまま書き連ねていますけれども。


というか、結局技術…型?や決まり事はもう決まってるんだから、それはたしかに教えられるけど、その精神性とか向き合う姿勢とか型を支える諸々は、自力で習得してちょうだい!にやっぱりなるよなあ。

きっと世阿弥は表現する力があったから、文字にして後世にその言葉を遺しているけど…それを本当に理解できるかは、受け取り手のセンスや土台によるし…
そもそも口下手な師や古老はどうしても「黙して語らず」になっちゃうし…
それで一生懸命伝えたくても反発されたらいやになっちゃうし…


なんかだんだん言いたいことわからなくなってきた。



盗んで自分のものにして、自分の「芸」「舞」「立ち居振舞い」「所作」を高めたいほど、貪欲。あるいは謙虚であるともいう。
まだまだ、まだまだ、って。
師を超えてやりたい、でも超えられない、って。

自分はもう極めたわー、ウマイわーって慢心が一番残念。
慢心のある舞、姿は、はた目で見ていてやっぱりわかるし、美しくない。


とかいって、自分は芸事に全く通じないんですけれどもね。えらそーよね。

でも、ライフワークとして、神楽と向き合い、それを見つめ続ける上で、学びを深めることを貪欲に求めていきたいし、師や古老の言葉を請い、盗めるものは盗みたい。小さな小さな声に耳を傾け、時には引きずり出してまで聞いておきたいのです。
私はもう神楽についての見識を極めた、と思った途端に、きっと師たちは口をつぐむだろうし、つまらんものになるでしょう。


どうしたって知らんこと多すぎて全然極められんわい。