舞ひあそぶ

神楽のこととか、備忘録の掃き溜め。

アクティブな引きこもりとホーネンさん


アクティブな引きこもりといたしましては、布団から出てお外に出ることが、そもそもハードル高いので、車を出したらもう市内走ろうが出雲走ろうが、浜田や益田へ行こうが大差ないし、片道3,4時間のドライブも特に苦ではありません。
きっと唯一持ち合わせる営業向きの素質だわ…

でも、東は、私からしたらなんもないので、やすぎから先はよー行かれません。くらよしとか砂丘とか見てみたいけど、いまだによなごが走破の最東端。


と、いうことで、めでたく開通した三隅を通ってみたかったし、ゴーゴーますだ。

いやーもう少し先まで乗せてくれると山登りが減って楽なのですが、まあそうはいっても、気持ち的にだいぶん楽になりましたねえ。

そいで、石見美術館へ。
ヨシトシなの?ホーネンじゃないの?あれ?とか思いつつ。読み方間違えて覚えていたのかな。


多分、近年の第一次クニヨシブームの頃だと思われるんですが、クニヨシさんの知名度が今ほどに高くなかった頃に好きになりまして、以来浮世絵師はクニヨシ、キョウサイが好き、みたいな具合でしたけれども。

森美の大展覧会の前くらいかなあ。忘れた。
あれは森美の中でも最高な展覧会でありました。

ホーネンさんはクニヨシさんのお弟子ですね。
江戸末期から、幕末の維新、明治の文明開化を、体感したひと。


浮世絵は、題材含めた絵そのものも楽しめるけど、色の組み合わせとか、刷り色の発色の美しさとか見るのが好き。

江戸っ子の「粋」ってやつですな。



クニヨシさんに弟子入りして、ホーネンで名乗ってる時のでしょうか、絵はクニヨシさんのものを真似たやつが多かったりするんですけれども、やっぱり師のクニヨシさんのほうが、人の造形やバランスなど含めてなんとなくだけどバツグンに心惹くものがあります。


あるときに師匠がポツリとこぼした、師を越えることはできない、という言葉が思い出されたのでした。
師匠は、師匠の師匠の(師匠が多い)背中を今でも追いかけておられるのかなあ、と思ったりして。ホーネンさんも師匠の背中を一生懸命追いかけている。


とか思いながら、くるくる見て回って楽しかったのですけれども、「大蘇」の号に変わってからは、雰囲気もかなり変わって、私はホーネンさんならこの時代の絵が好きかな、と思ったのでした。
基本的に感覚でしかないのでうまく説明できませんが。

あと何点か画稿も出ていたのですが、どんな浮世絵よりもあの画稿たちが素晴らしかった。
あれを見るためだけでも出かける価値はある。

ていうか東京で同じボリュームでやっても1800円くらいとられますからね。いやはや安価にホンモノを見る機会があるならやっぱり行くしかない。


画稿というのは、まあデッサンみたいなものでしょうか。
本チャン書く前に、人の表情や構図などを考えているところ。と、生き物のスケッチ。

美術で習うような、グレースケールで陰影も書き込むデッサンとはまた違って、ほぼ輪郭線と一番濃ゆいベタ塗り部分の指定?くらいなのですが、すごく、生々しいのです。
西洋画の写実性とはまた違う、抽象化されたリアリティ。

能でいうところの、型で人の喜怒哀楽、生きざまを表現しているような。

特にホーネンさんは、幕末辺りかな?記録係として戦争に派遣され写生していますから、より抽象的に、かつ的確に生き物の生をかかれるのかもしれません。

すごかった。


で、大蘇時代は、もう明治期に入り、浮世絵に西欧画の図法とかアングル?もふんだんに取り入れているのですが、それがまたよい。


クニヨシさんのお弟子時代からの土台や、画稿という基礎があるからこそ、西欧画の図法が入ってもブレないんだろうなあ。

土台や基礎がしっかりしていなければ、どんなに新しいものを取り入れてもつまらぬミーハーになるだけだけど、しっかりしている人ならば、その新しいものもガツガツと咀嚼して自分の肉としてしまう。自分のものとしてしまうから、上っ面ではなく、人の心を惹き付け唸らせるんだなあ、ということを改めて考えさせられたのであります。


私は、芸事だ絵だなんだと、うまくアウトプットする技術や才能は持ち合わせないけれど、いろんな良いものとの出逢いや師匠の言葉を土台にトンテンカン、何が出来上がってくるのでありましょうか。


たっぷり一時間以上堪能いたしまして、満足満足。行ってよかったー。