おもて、のこと
昨日の続きをちょびっと。
師匠が教えてくれた、「変わったら舞が変わる」シリーズのなかに、面が変われば舞も変わる、というのがあるけど、結局これも昨日のやつに繋がるんだなあと思ったのでした。
舞手は面に、肉体を貸しているから、面がその人の肉体で舞っているから、面が変われば、面の性格も変わる。だから、舞が変わる。
良い舞手は面に肉体を貸しきれる人、面と対話をできる人だよと言われて、はああなるほどなあって。
たまに、能とか神楽とかで感じる、面が本当の顔みたいに泣いたり笑ったりしているのって、面そのものの造形、舞手の所作、型の習熟度だけではなくて、面とその舞手がうまくリンクしているときなんだなあと、思ったのです。
自分が自分がと、自己顕示欲というか…我が強いと、どんだけ端整にしていても、たぶん本当に良い舞は舞えないのではないかな。
面と自分が戦ってしまう。
面のキャラクターに寄り添えない。体を貸してあげられない。
逆になんか残念感があるときは、こういうときなんだろうなあ。
あとやっぱり、去年の夏くらいにいったかもだけど、具体的すぎる表情とか、作り込みすぎた面だと、またそれはそれで私としてはしっくりこない。
というのも、名手の生まれる面、名手を必要とする面、良い面は、抽象的な造形というか、なんともいいきれない曖昧な表情が多いですよね。
極端な話、兄まあさんも、あんなお顔ですけど、あれがどんな感情であるのかは、言い表しきれませんね。いわゆるひょっとこみたいなオドけているかといえば、どうもそうともいいきれない感じ。でも、確実にあの面にはあの面の性格がある。あの面の舞がある。だから、あの顔で受け継いできた。
曖昧な表情というのは、逆に、あらゆる表情ができるということ。感情を多様にあらわせるということ。
笑った顔は、まだなんとかしようがあるけど、目をひんむいた怒った顔は、どうしたって怒ってる。つまり、怒ってるとこしかあらわせない。
あ、だから面を変えるという文化が副産物として生まれたのかもしれないなあ。
わからんけど。
能面の般若面は、あんな顔だけど、泣きますからね。
橋姫もだけど、彼女たちはちゃんと泣ける。いや、もともとあれは哭いている。
面が泣きたいときに泣き、笑いたいときに笑うことのできる面が、いいなあ。そしてそれを生きたものとするのが、舞手。我が強いと、生かせない。
そうそう、権現様とか、神楽でも面がご神体となっているのも、そういう面のもつ力所以なんですねえ。
権現様は、人の体を借りてうきうきと舞いあそび、祝福してまわる。
あのなんともいえないプリチーな感じは、舞手の体を確かに借りて自分の守護する人たちのところへ出かけていたからなんだろうなあ。
現実と非現実、人間とそれ以外の境目に面がある。
おもて、についての説明をもう一回聞きたいな。
最も原始的な儀式では、化粧がはじまりのはず。
その次に、面。
文化人類オタクの先輩に聞いてみよっと。
妓楽とかあのあたりから面の文化は確実にあって、醸成されたのが能、狂言で、あえて化粧に戻って、自分の顔を生身の面にしたのが、歌舞伎、ということなのだろうか。
うううーん…思考がうまくまとまらないなあ。
なんで歌舞伎は化粧なんだろう。
登場人物がおおくて面が足りないとか?能への反骨精神とか?傾きたいから?
よくわかんない。
あれよね、化粧は稚児に施してたと思うのよね。
あー歌舞伎の歴史について教わった気がするんだけど…忘れてしまった。野郎歌舞伎の前に関係がありそう。
人はなぜそんなにばけたいのか。
なんか、いろいろ。もがもが。もがいてももがいても。