舞ひあそぶ

神楽のこととか、備忘録の掃き溜め。

春なわすれそ

車を走らせていて、陽射しもそうなんだけれど、なにより山の色が変わってきたので、ああ春が来ていたんだなあ、って。
黒々した色から、赤みを帯びてきた。
まだ梅も悩みながら、つぼみは固いだろうけれど、確実に頬を染めてその時を待っていますね。
早咲きの桜かなにか、梅じゃないのが少し咲いているのも見かけました。
雨も少しずつトゲトゲが取れてまろみがでてきた。


いつか、梅林というのに行ってみたい。

山根さんかな?曽我兄弟の演目あったのと、歌舞伎でも有名ドコロ、「外郎売」としてもしられている、曽我の梅林は比較的地元なのですけれども、行ったことがなくて。それもまた悔やまれる。

たぶん距離でいえば電車で30分なので、出雲かその手前らへんくらいの感じでしょうか。

曽我の梅林の梅干しは酸っぱくておいしい。


桜は私の誕生日の花なこともあって、好きなのですけれど、島根に来てからは梅のほうが、春来るらしな思いがして、咲いているのを見ると嬉しくなります。
こっちのほうがやたらめったら寒いぶん、梅が咲いて春の訪れを告げてくれるのがありがたい。

あと、神楽歌でよく聞くようになって、美しいなあって思うからかな。


拾遺和歌集」「源平盛衰記」などでは
東風吹かば にほひをこせよ梅の花 主なしとて 春を忘るな

ですが、

「十訓抄」「太平記」「荏柄天神縁起」などでは
東風吹かば にほひをこせよ梅の花 主なしとて 春な忘れそ

となっているようで、神楽歌でも歌われる人によって違う気がします。「春を忘るな」がなんとなく多い気がする?

そういえば荏柄天神っていえば……鎌倉。一回だけ確か行ったことがあるけの、なんかビミョーに遠いところにあって、やぐらがある天神さんだった気が。昔はよく鎌倉は延々歩いたものです。


話は戻りまして、個人的な好みでは「春な忘れそ」のほうが好き。
「な~そ」の用法って、「~してくれるな」って、祈りとか願いに似た禁止の意味合いが「忘るな」より強い感じがして。

梅よ、どうか春を忘れてくれるな、の思いのなかに、私にどうかお前の匂いを届けてくれ、春を運んできてくれ、という願いがあるような。
春を、だけど、私を、でもある。
私のために、咲いておくれよと。
東風が吹いたら主の私を思い出して咲いておくれよと。

そんな気がするのです。



前に、ちょっと言ったかもだけど
梅は私のところへ飛んできてくれた、桜は私をおもって枯れてしまった、松よお前は変わらずそこに立っていてつれないなあ、の歌
松は待つ
だから、彼は一人、主が戻ってくると信じて、帰ったとき主を屋敷で迎えたくて待っていたのに、つれなかるらんとは、主はつれなかるらんと思っていたし、やっぱりいまでもちょっとそう思う。

でも、菅公は、自分が帰れないと悟っていたからこその、つれなかるらん、だったんだろうとも、この頃思うようになったのでした。
帰れないから、どんなに待ってくれてもその健気さに応えられないから、松よお前はただ立ち止まってじいっと待つばっかりなんだなあ、といううらめしさ、さみしさ、切ない気持ちもあるのかなって。


追いかけるがいいか、悲しみ朽ち果てるがいいか、前にも進めず立ち止まるがいいか、どれがいいんだろう。どれもなんだか幸せではないよなあ。

やっぱり主はつれなかるらんだ。