舞ひあそぶ

神楽のこととか、備忘録の掃き溜め。

非日常と祭りについて

祭りシーズンだからか、"祭り"とか、"非日常"とかそういったワードをいっしょくたに目にしたり耳にしたりする機会が増えていました。そういえば。

あくまでも、個人的な思いだし、言うことがちょいちょい自分にブーメランでブスブス刺さるのだけれども、"非日常"の"祭り"に行こうよ、っていうのは、ちょっと違う気がするのです。


そもそも"非日常"というのは、自分の行動パターンから外れたときのことを指すわけで、そのなかで出会う新鮮さであったり、いわばカルチャーショックであったり、感動であったり、経験とか場面とかということよね。

確かにそう思えば、祭りは非日常的なことではあるんだけれども、同時に、"祭り"だけで日常から切り取ることができない世界でもあると思うのね。
チョキチョキって。
日常の連続のなかだからこそ、祭りが成立するというか。

頭こんがらがってきたけど。


ある人にとって、自分の行動パターンから外れた場所に出かけたときにはすでに"非日常"になっているわけで、そこにある"祭り"だけが非日常であるわけではない。

ひとは、あるところではよそ者であり、あるところでは地元民であるのと同じで、自分の日常が非日常世界であるひともいれば、自分が非日常世界と感じるところで日常を紡いでいるひとがいる。ある人にとっては日常だし、ある人にとっては非日常。

ただ、その日常の営みを紡いできた人たちがいるから、"祭り"という非日常世界が成立する。

ただ、その祭りですら、長い目で見ればその土地の日常の営みなわけで。


自分自身の"非日常"を求めて、誰かの日常に土足で上がり込んでいる自覚はしていないといけないのかなって。

だからといって"非日常"を感じてる時点で"よそ者"であるというわけではないのよね。それすると、人が泊まりにきてソワソワする自分まで"よそ者"になっちゃうから。



テレビとか、雑誌とかで、どうしておなじ"祭り"でも神楽はあんまり取り上げられないのかな、とか思うんですけどね。

比較的、誰の目からでも"日常"に近く感じられるからなのかな?
"非日常"とやらを追い求める都会人からすれば、もっとガツンと一発ものみたいな、あ、それは違うか。もっとインパクトのある"非日常"感がほしいんでしょうか。

でも、そのガツンとヘビーなやつも、それはそれでその土地にとっては日常だと思うのだけれど。

例えば沖縄とか、確かに祭りも独特だけど、それが"非日常"なのは、沖縄そのものが"非日常"的な存在に感じてる人間だと思う。


私自身、地元のお祭りについては無知なので、いろいろブーメランなのだけれども。
実家のほうは駅というか市街は御輿が出るという話あんまり聞かないのよね。おじいちゃんちのほうは、御輿が出るのだけど。
それも、無知なだけなのだとは思う。

それでもって、御輿ガチャガチャについて興味を引かれるわけでもないので、それもまたブーメランでブスブス。


自分の日常のなかの小さな非日常、ハレの日が、普通に日常にいるとは思うし、それがある人にとってはものすごく非日常であるのかもしれない。


石見沿岸部のひとたちにとって、神楽は日常?非日常?
多分、日常であり、非日常でもある。

あの空気感、いとおしい。

地域のたからもの。


結局またそこに帰結してしまった。


そんなに非日常を求めるんなら、祭りなんかを言い訳にしないで、とるもとりあえずコンクリートジャングル飛び出せばいいんじゃないの?
というのが究極の私見

あんだけ人がいるんよ。

自分がいなくなったところで、かわりはいるんよ。

どれだけ引き留められても、案外何とかなっちゃうもんなのよ。
家族関係ですら、そうなんだから。


日常と非日常をもっと自由に行き来できる生活だって、あるのに。
非日常だって、ちょくちょく頑張ればそのうち日常のひとつになることだってある。それもまた人生。