きゅっきゅって磨く話
最近、ことに、師匠が、やっぱり基本が大事よ、基本の舞を磨かないといけないよ、って話されるなあと思うて、メモがてら。
職人みたいだなあとも思う。
わたしは、元々壊滅的にセンスを持ち合わせないのもあって、ひとつのことに対し、誰かから習って愚直にこんこんと打ち込んだことってないのだけれども。
人から人へ伝わっていく特性から「基本」とは、一番シンプルなはずなのよね。無駄なもの、飾りはすべて削ぎ落とした芯の部分。
なぞることは、能力やセンスなど個人差はあっても、短期間で習得できると思う。あ、私はできませんよ。
でも、磨くっていうのは、難しげですね。
時間かかるでしょうね。
手打鉦とかも、入門編でありながら極めるのには十年選手とも聞きます。
多分、その場かぎりのもの、飾り物をつけるほうが、容易い。そして、人の目を引きやすい。
でも、不思議なんですよね。
基本が疎かになったまま、その場かぎりのものや飾り物がくっつくと、小技ばかりなのが目につく。基本のところがうやむやになっていたり、落ちてたり、なんというかなあ、トレースしきれてない感。
輪郭ボヤボヤというのかなあ。
その場かぎりのものというのも、本人的にはあえてのつもりなのかもしれないけど、結局は単なる思い付きなので、正確な2回目はない。
劣化したコピーで精一杯。
基本のある人は、その動きに基本を見てとれます。
あ、簡単な話、そういうことか。
それいうのに遠回りしちゃったよ。
基本が見てとれるからこそ、美しい。
だって、削ぎ落とされた美なんだもん。本質が美しい。
磨くって、そういうこと。
でも、能の美しさとか、これに限ると思う。
限界まで具象を削ぎ落とし抽象化したからこそたち現れる具象。
磨きかたは、わかんない。
わたしは師匠に身体技能としての神楽を習うたことはないので。身の内にもないし。
でも、真摯に、師や古老の教えをなぞることは、ひとつあるんじゃないかなあと、思ったりはするのです。
コンテンポラリーダンスじゃあないんだから。
伝統芸能なんだから。
※でもコンテンポラリーダンスも適当にふにゃふにゃしてるわけではなく、基礎となるものはあるよう。
どれだけ変えたくなくても、人が変われば舞は変わっちゃう。だけど、なるべくなるべく近い縁をなぞっていく。繰り返し繰り返し。繰り返して、骨の髄、あるいは血肉となるまで。
教えは、反発するものじゃあなくて、寄り添うものだと思うんだけどなあ。反抗期かな?それとも思春期?
聞けるうちに聞いとかんで、聞きたくなったときには、もう先人は去ったあと。
往々にしてそうでしょう。
親離れはとっくにしてるけど、師匠離れはできません。
いろいろ言いたいけど眠いから寝る。