舞ひあそぶ

神楽のこととか、備忘録の掃き溜め。

西から来るもの のつづき

これにはつづきがあって、
信仰が製鉄と共に西から東へ上ってきたからと言って、やっぱり神楽については、安直にそれだけで判断はできないとおもう。

それだけでいうと、弥生時代後期や古墳時代とかまで遡ってしまうだろうから、いくらなんでも現実的ではない。

となると、次に絡んでくるのは修験道

これは、大きいと思う

身近な例でいけば、大麻山神社とかその他もろもろ、たくさんある
これをもっと突き詰めようとすると、お寺まで調べないといけないから、ちとたいぎ

石見国神社記』を長し見た限り、多陀寺もたしかそうだったかな?寺内社という意味なのだろうけど

きりがない


でもなかでも、熊野権現は大きいんじゃないかと思う
いっぽうで、白山は予想に反して、少なくとも神社ベースでは痕跡が追いにくい
もしかしたら摂社末社あたりを見逃しているかもだけど、とりたてて大きいものではなさそう。

だから「生まれ清まり」の思想はどちらかというと熊野信仰からくるものなのではないかなと
山のあり方とか、勢力とか、もろもろ含めて。

だからといって密教系寺院が多いわけではないと思うけど…

お葬式的な観点でいえばそれもそうかなと、なんとなく


ただ、よくわかんないけど、ここらへんの神楽は、修験色は当然ありながらも、それだけではない、と思う。
まあ八調子は当然として…六調子を見ても、なんとなく感触として、法印神楽ではない気がする。
県境越えて西とか南のほう行けばまた変わるけど、とりあえず当地についてに限定すれば、そう言って良いと思う。

ということは、今度は「神道」が関わってくるのか?

あと、四国からのヒト・信仰の流入も無視できないところではある。

……というところでとりあえずストップ


ぐっと時代は下がって、石見銀山街道筋とかも視野に入れて良いのかなと思ってはみたけど、当然のことながら何回も中継・交代を経て大坂だったかな?に納めてるので、いまいちピンと来ない。
その感覚で言うなら、たぶんもう少し前の戦国武将あたりからの流れを見た方がいい気がしてる。
でも戦国時代は何回読んでもワケわからん

京極尼子毛利??

でもやっぱり陸路より海路じゃないかなあ。
そうなると、西も東も瀬戸内も圏内にはいる。


それと、神社については、明治時代に入ってからご祭神が整理されたところも多いそうだから、それも留意しておかないといけない。
「なにか」を祀っていた、ことは事実でも、規格に当てはめて整理されたのはことのほか最近のことだということに驚く。
そのうちの多くは祖先神系なのではないかと思うけど…
でも、それをそこで祀ることに理由があったのはたしかなんだろうな


オチはない。進行形で考えていることだから

いっそ古文書研究が豊富で進んでたり、先行文献が出揃ってたりするところのほうが楽なのになあって感じ。
どうせそうなると私なんか、独自の新説なんか考えられんけど、少なくとも調べてわかる欲求は満たされるのに。