舞ひあそぶ

神楽のこととか、備忘録の掃き溜め。

現時点での大元考

わたしの内蔵ディスクのキャパを大幅に上回る情報量に溺れていて、そろそろ外付けHDDに入れないと脳みそがぶっ飛びそうなので
まだ精査してないし、個人の見解でしかありませんが


まあいろいろあって、
オオモトサマ
コウジンサマ
トシガミサマ
そして、ミサキ

調べているわけだけど、どうにもオオモトサマだけ、全容が見えてこない
広く分布しているものほど、古くからあるものだと考えれば良いと教わったけど、逆に、超ピンポイントな場合はどう考えたら良いんだろう。

そもそもオオモトサマの特性が、実はよくわかっていないなと実感していて
荒神、なかでも竈門の神や、ミサキなんかは、かなり、個性というか、パターンがあるから判断つきやすい
あと、トシガミサマも比較的そっち

で、そのわかっているパターンに当てはめてみると、オオモトサマというのは、微妙に異なる特性を持っている気がする。

祟る神ではあるけども
でも昔は死者供養の神楽、注連神楽、あるいは、ミサキ神楽があったともいうから、変死者とか、そういうタマとは区別していた。

邑智郡界隈とかでは、藁蛇を重要視するけど、それはどっちかといえば田の神としてのコウジンによく似てる気がする。
一方で、どうも那賀郡で藁蛇というのは、あまりみた記憶がない。
どこだったかではじめて藁蛇を見て、これか噂のアレ!!!ってなったくらいだから。


ミサキほど対象もはっきりしてない気がする
なんか、ぼんやり祖先神、開拓神、的な

名もなき小祠たちを、明治以降とりあえず「大元さん」にしたパターンもあると思う
でも、何事もない土地にわざわざ神を祀ることはしないから、やっぱりなんらかの祟りなり、大きな人の死なり、なにかがあった場所、にあるのだと思う。

クニトコタチやアメノミナカヌシといまはされているということは、国学記紀神話への理解が進んでからなはずなので、当てはめられたのは早くても江戸中期とかそれ以降なんじゃないかな?
浜田藩本居宣長国学には関心度が高かったようだから、案外明治よりも前かもしれない。
あと、吉田神道なのかなあとも思う。これもまたよくわからん

一方で、ムラムラにある宮は、かなり外の氏神が多い
春日(藤原市)や大社系統、熱田、大三島…そして八幡

歴史的な背景で言えば、
尼子や毛利とか、大きな戦国大名に挟まれて、自分等のとこからは大きな勢力は生まれず、街道や鉱脈を狙われて、翻弄されてきた、とおもう。


そのなかで、わざわざ神代七代の創造神を「大元神社」あるいは「大元社」に宛てた理由

もしかしたら、これは完全にわたしの想像だけど
小さな小さな抵抗だったのかもしれないなって、思うのです

いろんなよその神さんがおりんさるが、このムラを作ったのは、土地を拓いたのは、自分らあの祖先
自分らあは土地の開拓者、クニトコタチの子孫として、この土地に住んできたんだ、という石見人の矜持

だったのかもなあって。

これが今現在でのわたしの想像
これからまた変わるかもしれない。



ちなみに、ああなるほどね、と思ったのは
何十年単位の式年祭の神上げの意味は、ちょうどそのくらいのスパンで「個人としての死者を記憶する人のいなくなる長さ」=「死者の個性が失われるタイミング」=「神(霊の集合体)に加えられるタイミング」だといわれて
人の本当の「死」は、生きてきた時の記憶が失われるときで、そのときホトケからカミになるのだと
昔の人の寿命とか考えて、それはすごく腑に落ちる。

ホトケから、カミに
風のひとつになるときがくる。

仏教観念と日本人の感性がうまく融合した結果そうなったんだろうな。