舞ひあそぶ

神楽のこととか、備忘録の掃き溜め。

おそれとおに

恐れとか、鬼とかについてつらつら。

ネット通販の口コミで、良書と名高かった『鬼が出た』という絵本を買うたのであります。
いやーこれはたしかに良書。
対象の小学生にはちいと難解かもしれないけれど、思考力の形成とかに対して、非常に価値ある本の1冊だと思いますね。とかいって自分は子どもの予定も願望もないけど。

昔の絵巻とか美術資料と、絵を主に使いながら「鬼」について学ぶ絵本、といえばいいのかしら。


そのなかに「鬼のつくり方」という章があって、鬼のつくり方で大切なことはふたつあると。
ひとつは「いろいろな鳥やけものから、からだの中のとくにつよくてこわそうなところを、部分だけかりてきてつなぎ合わせる。」
ふたつめに「手足や胴体など、全体の形は人間とおなじにする。背の高さはもちろんのこと、ほかの部分もできるだけ大きくてつよそうにする。」
人に似ているからこそ、人はこわくなる。

頼政」の鵺なんかも、これに則っていると思うのね。実際「何かわからない恐ろしいもの」としての鵺のビジュアル、という認識はあるわけだし。
絵巻に出てくる百鬼夜行とか、付喪神もこれかな。

あ、そうやって考えると、鬼着?についたニクモチって、狙ってか知らずか、この「大切なこと」を表現してるともいえますね。
陣羽織?水干?神の着るほうにもついてますけど。
勝たなければいけないから、鬼と対峙するのに大きくしてつよそうにする、ためのもの。
毒を以て毒を制する
大きく強いもので、大きく強いものを打ち砕く。


この絵本では、鬼のゆびは3本が多いとのことなので、そう考えるとこの前もんもんしていた手先は、ボールの投球系になるのかしら。


最近、どうしても神基準に寄っていたので、読んでいてハッとしたのが、この絵本でははっきりと、鬼とは仏教からみた別の宗教の神々である、といっていること。仏教とは違う別の宗教の神々が、釈迦にとっては魔物だったと。風神雷神や、四天王に踏まれている邪鬼など。

子ども相手にそれ言うのね!って感じでもあるけど、でも、神楽でも、神からみた別の国の王や、いうなれば「ヨソモノ」が鬼となっているわけで。
鬼という言葉にとらわれずに考えれば、キリスト教による教化行動であったりとか、村における儀礼であったりとか、人間社会のあらゆるところで見られる視点なのよね。
それが、悪とか善とかではなくて、ある共通認識のもと集団を形成、維持する上では必要な視点であるともいえる。人間だけではなく、群れで生きる動物に当てはまるんじゃないかしら。

スケールが…

面白いなと思ったのが、花祭の榊鬼をはじめ、土地のヒーローとして祭られる鬼がいるのは、なにかね、となんとなく思っていたけれど、それというのは、仏教の鬼が入ってきて以降、土地の神が、鬼の姿で表されるようになった、といっていること。
なんか腑に落ちるー。
またこれは思考を深めたい事柄ですね。

「鬼おに」の語源は「隠おぬ」隠れているものを指す。
最後キュンときたのが、
どこかに隠れて見守っているものが、祭りの時に現れてくる。人びとは、「まるで鬼ごっこのように」鬼たちと遊ぶ。からだごと触れ合って、「生命の息吹をそそぎかけてくれる」。
それが、土地にたち現れる鬼の姿といって、結んでいること。

いやーキュンときた!



ただ、鬼という存在は、大抵やっつけるもの。
群れの営みを脅かすヨソモノは排除せねばなりません。

人間の想像は、鬼を作り出したけれど、その鬼をやっつける英雄も作り出した。例として鍾馗を挙げとられましたが、神楽における神々、スサやタラシナカツヒコなど、もーいうまでもなく、まさしくでしょう。


この想像の根底にあるのは、恐怖。

と、ここまでモグモグしていたところ、たまたま、師匠とお話ししていて、昔の人は恐怖だらけだった、という話題に。

簡単にいえば、平安時代とか、普段ないことが起きると、あわてふためいてすぐに占わせる。いつもはないような虫が家のなかに迷いこんだとか、動物が死んでいたとかうんピー踏んだとか。
闇がすぐ隣にいた。死がすぐ隣にいた。自分や周りの営みを脅かされるという恐怖だらけ。

だから、仏教、というか成仏…えー…阿弥陀信仰?が勢い付いたし、それに伴う文化が花開いた。そして、鬼が跳梁跋扈した。



祈りも、恐怖心からの救済を求めて、ともいえますね、そういえば。

創造主が、生き物に恐怖心を与えなければ、せかいはつまらなかったかもね