舞ひあそぶ

神楽のこととか、備忘録の掃き溜め。

うまれきよまりについての若干の考察

せっかく今ごろになって始めたポケモンGOで楽しく歩いてたのに、昨今はそれもなかなか難しく、その代わりやっと短時間なら読書できるようになったので、母に大昔勧められていた高田崇史先生の本をいくつか読みました。

かなり、深く研究されていて、いうなれば研究論文として書かれても良いような内容を、あえてフィクション小説という別のハコに入れて書いとられるみたいな。
気になったテーマのものから読んでるので、登場人物のストーリーはなんのこっちゃ状態ですけど、いろいろ示唆に富んでいて非常に面白いです。

ポケモンは友達曰く「初等教育以下レベル」で、幼稚園の時覚えさせられた名前を羅列した呪文みたいな歌の一部しかわからないし、高田先生の本は大学の頃から勧められてたから、どちらも「今さら」といわれるけど、私にとっては、「今」がその時だっただけ。
タイミングが違ったというだけ。


今手元に確かめられる文献が何もないので、細切れの記憶が頼りで、内容は正確ではないでしょうから、あくまでも思考の断片のメモですが。


神楽執行の目的として重要な要素である「生まれ清まり」

これは、奥三河が一番よく例として出されます。
というのも、折口信夫とか力ある人たちがフィールドにしていたのが花祭だし、その文脈でその単語を使ったからなのでしょう。

ただ、とある一連の儀式はひとつの定型として存在していて、いろいろな芸能、神楽のなかに見えかくれしている。
誰が見てもそうだね!といえる状態で行われるのか、何重ものベールに包まれて複雑な状態で行われているのか、という多様性のなかで、たぶんまだきちんと全国的な視野で整理はされていないのかもしれません。
あるいは、今現在においてされてるのかもしれないけど、まだ私がそこまで追い付いてないのでしょう。

いずれにせよ、大元神楽牛尾三千夫みたいな感じですね、とか思ったり。


話が逸れた。


三河の花祭については、今ではもう行われないけど、かつて祭りのなかで、すごく簡単にいえば、病を患う人や厄年といった、普通より死に近い人たちが、死装束で、集落を流れる川を渡り、「白山しらやま」という方形の建物に籠る「白山入り」をする。どちらかというと修験~仏教的な儀式があったといわれています。

この擬死再生の儀礼こそが「生まれ清まり」
そしてその源流にあるのは、白山信仰である、とも。

ところで、花祭りの鬼「山見鬼」がマサカリで山を割り「榊鬼」は村人を救い出したから、ここでは「鬼」こそ神だし、「榊鬼」には角がない、だったような記憶があるのだけど…この「山」というのは「白山」のこと。
今ではあの土地の山?たしかにしんどい山だけど何故?とか何となく調べないまま引っ掛かっていたことが、本に書いてあって、ようやく自分のなかで納得できたのでした。
やっといろいろ繋がった感じ。



実は石見での儀式とか共通項とかもいろいろ考えて師匠には捲し立てたんだけど、今たしかなソースを出すことができないから、まだ温めておくことにします。



いずれにせよこの「生まれ清まり」というのは、なにも花祭に限ったわけではないのだけど、では逆に何故「生まれ清まり」が神楽において重要なのか、そこの疑問に対してしっくりくる答えが、今まで見当たらなかった。

魂を振るわせ次の一年への予祝であるといえども、どうして、尋常ではない行為をもってその儀式を行うんだろうと。
何故よりいっそうしんどいことをするのか?と。


私が、高田先生の本を読みながらはたと思ったのは、一番原始的で、根元的な理由は、「死者の復活(再生)」という世界共通の思考、願いからくるのかなということ。

死という不可避の恐怖を乗り越えるための方法。

キリスト教も同様の思考がみられます。
仏教も勿論当然ある。それだけではないでしょう。


仏教のニーズの変遷とかから考えると、もしかしたら最初の最初は、純粋に「死者の復活(再生)」が目的だったけど、段々時代が下ってきて、「いま生きている人」に対しても目的が広がってきたのかな、とも思ったりします。
いま生きている人たちの活力の復活、次のステージに向けた再生、みたいな。極楽浄土から現世利益までみたいな。



大元神楽では、いまは託宣云々かんぬんが注目されがちだけど、私が昔調べたときはどちらかというと大元神(祖先)の神上げの方が目的のウェイトが高かったような印象があります。思い違いかもしれませんが。

その神上げについても、そういう言葉としてしか考えてなかったし、なんか難しいわあ思ってたけど、もっとシンプルな話で、祖先という死者を「神」として復活(再生)させる、ということなのかなと。

いままで難しく考えすぎてたのかもしれない。
何層にも渡って積み重なってきた地層の表面に立っているから。

先駆者の言葉や研究は重要だし、ありがたいけど、その単語単語に縛られやすくもなってしまうから、論文だけ読んでればいいってもんでもないなあと改めて思わされたりもするわけです。

まあでも人付き合いは人付き合いで疲れきってなにも考えられなくなってしまったわけだし、どうしたらいいんだろうかな