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舞ひあそぶ

神楽のこととか、日常のこととか。

わたしはあなたと共にいる

と、いう言葉がポーンと頭のなかで跳ねるときに限って、いるなら出てこいコンニャロくらいの心持ちだったりする。

神様とかそこらについていま思ったこと。
あるいは守る神と救う仏についてちょっぴりの推察。

別に隠す理由もないのですが…
生まれる前から隣にいたのはキリスト教でした。
でも島根に来てから一度も教会というところに行ってないからもう無かったことになっているかも。有神論者なのに無宗教。うわー国教制だったら絶対排除の対象だ。
団体行動と毎週決まった日時に何かをするのがどうにも苦手です。ドラマも習い事も全く続かないので本当に苦手なのでしょう。はあ。

まあそれはとにかくとして、「いる」だからなんとなく抵抗があるのかなって、「ある」ならすんなり入ってくる気がするのです。

島根に来てからの方が、神を思うけれども、それは「いる」より「ある」感じ。

人格じゃなくて存在。

なんか難しいな。

なにか、風に紛れて、木々のざわめきに紛れて、海の波間に紛れて「ある」。恐ろしく感じるときもあるし優しく感じるときもある。なにかが空気中の粒子に紛れて「ある」。

神楽のある日とない日とでは、お宮の空気のなにかが確実に違ったりする。

それらに名前をつけたとき、神にも鬼にも妖怪にもなるんじゃあないかなあ。

うーーーん…わからないけど、なにか人じゃないものへ意識を向ける感受性が、神楽とか不思議な祭りのある土地にはまだあるんじゃないかな~とか思ったりして。というより、そう信じたい。


ちなみに、仏については、ブッダですからね。「いた」でしょうね。



国東半島の番組を見ていて、なんとなく出雲みたいな土地なのかなと思いました。

古くて、閉じ籠っていて、だからこそ残ったいとおしいものたちがある。
そうそう、地名も古くから変わらずに残ってるみたいだし。

面白いなー行ってみたいなー

大分は由布院しか行ったことがありません。
宇佐八幡の土地へ行ってみたいですなあ。


で、あーなるほどね、と思いましたのが、
八幡神は戦神、すなわち殺生をする神。
うん。言われてみればたしかに。

師匠が前に、若い頃は「(神楽の日は)親が死んでも来い」って言われたし、むしろそういうときだからこそ神前へ向かうべきなんだ、といっておられて、「ケ」ではないのかな~とか思っていたのですが…
殯とかもありますから、それの解釈についてはもっといろいろ調べて考えないといけませんが、よく考えたら神様が基本的に率先してもっと穢れるようなことしてますね。
征伐することが土地を清めることなので、そこにいたるまでの血だなんだは気にしないみたいになっているというか。
まあ、御祓してよねとかいわれるので、基本的にきたないのは嫌いなんでしょうけど。


そこで仏教が入ってきて、どうやって布教しようかな~って考えていたときに、思いついた人はマジで頭いいなと思いますが、その殺生をする業ゆえに仏の教えに救済を求める、という図式を作った。
いやーすごいわ。そのねじ込み感見事だわ。

能や狂言は、そっち。
大陸ではいまいちウケなかった草木国土悉皆成仏の思想も加わって、神も精霊も無生物も動物もすべて仏の教えによる救済を受けていいんだよって。
芭蕉」なんかが多分有名なんじゃあないでしょうか。
ただね、能の面白いところは、人の心だけは、その救済からもホロリと漏れてしまうときがある、と思わせるような演目もあるのです。
あー「鵺」もかな?あれは頼政その人であるとの説もあります。
これ系の演目を観てアタリだと、本気で泣ける。
ただひたすら悲しい、苦しいのなかに埋もれていく感じが、すごく胸を締め付けられて、泣ける。



じゃあ、神楽は?

うーん…もともと神様に求めるのは救済ではなくて守護なんだろうなあ。
「救われたい」って、ある程度整った環境のなかでそれでも埋まらない空虚感から抜け出すための欲求なのかな。
わからんけど。



キリスト教一神教だから、ひとりで守るのも救うのもやらないといけないんだなあ。
だから明確な人格神でなきゃいけないのか?

うーむ。宗教は難しい。

でも今私が求めているのは、守護よりも救済よりも、無だ。
なかったことに。すべては長すぎた夢だったかのように、何もなく、跡形もなく、無。

…なーんてね、