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舞ひあそぶ

神楽のこととか、日常のこととか。

大元さんとか八幡さんとか

やっと、ずっと、会いたかった人に、ちょっとだけ会えました。いつぶりかな。

いっちばんぐちゃぐちゃしていたときに、ただひとり、泣きわめきながら心のうち全部打ち明けた人で、ぐちゃぐちゃなままのそれを静かに聞いてくれた人でした。
自分が信じたいなら信じていろと、きっぱり言った人でした。
あなたが信じたいなら、ずっと信じていなきゃいけないし、そこまで信じることを、自分も信じてるからと。

師匠だって、そういうのかな。

向こうは向こうで常にいっぱいいっぱいなので、全力ではないけど、気にかけて、添え木みたいに、ポッキリ私がいかないように押さえてくれた感じ。
そういえば、就活のときもそうしてくれてたんだな。

その人に、師匠に、もっとありがとうって言わなきゃ。
いろんなこと。
ありがとうって、言えるうちに言わなきゃ。

はあ

私は、誰のことも支えられていません。

強くなりたいな~。ムキムキ!


で、なんだっけ。

大元さん。


ずいぶん前に師匠に教えてもらったことですが…

「大元神楽」=桜江を中心とした邑智郡一帯、が大元信仰とそれにともなう神事と神楽の伝承地域で、おらっちスゴいんだぜ~っていうのが通説というか、まあ一般的な評価なのではないでしょうか。

そもそも、大元神社そのものは、石見一帯にある。
そのなかでも、邑智郡の大元神楽伝承団体は、拠点となるお宮が大元神社なのだそう。

浜田の大元神社は、合祀や舞殿・拝殿などがない小さな祠のところと多いとのこと。
浜田が大元神社って一番多いのでは?と言われて、調べてみたことがあるのですが…もう結構前なのでうろ覚えなのだけれど、たしかに一番数が多いといってもいいくらい大元神社は多かったと思います。
またきちんと調べなきゃだな。

浜田にも、大元神社が拠点の神楽社中があるし、ひとつの町内で五つちかく大元神社が鎮座する地区もあるらしい。
いってしまえば、産土神とも氏神とも違う、えーっと…家単位だったっけ?忘れたな…農耕する集団の神なので、そういった母体の数だけ本当は大元神が祀られているはずなのですよね。本家を中心とした家族集団だったかな。
あと考えられるのは、田畑用の水が涌き出る場所。
いまだに藁蛇の祀られている場所とか見たことないですけど…水の涌き出る場所のちかくの大木とかに巻き付けてある、その意味をもっと調べたいな。

有福はやりましたし、沿岸部地域ももれなく大元の式年祭も、執り行っていたのだとは思いますが…
昔ちょろっと、いま60代の方が、自分が小さい頃は、もう神がかりはなかったけど、何年かに一度本当に盛大な祭りがあった、というようなお話を聞いた覚えがあります。


でも、本当に多いのは、やっぱり八幡宮
これは、邑智郡も。
武士の守護神と、言い切るには不自然なほど農村地帯を中心に八幡宮があるし…

たしか八幡さんってたたらの神でもあるのかな?

オオヤマツミや、金屋子さんあたりに意識を向けてばかりいましたが。

八幡さんといえば、応神天皇神功皇后仲哀天皇、(玉依姫)あたりが多くて、武神であるけれども、
たたらの神ということは…たたらから、玉鋼、そしてそれが武士の武器でありアイデンティティでもある刀へと繋がっているのですよね。
刀への思いや信仰というか。

戦国時代の武将たちが祀ったことも考えられるけれど…誰がどうしてそこまで八幡さんを祀るのか?

玉依姫は、巫女さんことではないか説があるみたい。


あと、ふと気がついたのが、明治の神職が農民に神楽を伝える流れのなかで、大体名前が出てくるのは八幡宮神職として、出てくるのですよね。

なんでなのかな。


あとは天満宮、大歳神社、稲荷神社、厳島神社が数社あるよとのこと。

大歳神社って、結局どんな神様なんだっけ。
厳島神社は、江の川にもおられた。
稲荷神社のかわり?なのか美保神社があるところも。

ほかにももちろんおられるし。
やっぱり石見も神様密度高め。


ただ、出雲のほうが圧倒的に、その土地限定というか、土地の名前を持った神様というか、神様の名前と土地の名前が一致しているところというか、土着の神様が多いとは思います。
よそからお越しいただいた神様よりハバをきかせてる印象。

それが、箱庭のような、出雲。




ああ、あと、式年祭、とくに33年周期とかのもののときにその特性が色濃くでる気がしますけど、「神あげ」の儀式でもあるのですよね。
それまでに亡くなった人たちの霊を、祖先神のなかに加えるための、儀式。
なんか仏教でもそんな法要みたいなのなかったっけ。

祭りでは、神の声をきき、新たな神を送り出す。

なんでそんななんか、難しいことしてるのかなあ。と、大学の時思っていましたが、昨日テレビをぼーんやり見ながら何となく感じたのは、「神あげ」の儀式は、「思い出し、忘れる」ための儀式なのかなって。
んー…普段、まあ日本なので…お仏壇に手を合わせたり、法要?を執り行ったりして、「思い出す」ことは、本当にこまめにしていますよね。お盆とかお彼岸とか。
神あげとして、祖先神に加える。
丁寧に丁寧にその人のことを思い返し、送り出す。
送り出した先は、名前を持った一人のひととして認知される世界ではなくて、大勢の名前まではそんなに思い出されない過去の人々の一人に加わる。

思い出さないでいいんだよ、すっかり忘れてね、というよりも、たまには思い出してね、というニュアンスで、たまにそういったまつりごとがあるんでしょう。
でも、いつまでもその「個人」の記憶にとらわれず、前に進んでね、神としてずっと見守ってるからね、って、いま生きている人たちが消化するために、区切り目とするために、あるんじゃないかなあ。

わからないんですけれども。

生きている人たちの、心の整理の付け方なのかな。


あ、でもそこにあるのは仏教的な輪廻転生よりも、アニミズム的な世界観ですね。
来世で会おうじゃなくて、姿は見えねども、形は変われども、そこに「ある」。